先月、日経デジタルコア勉強会「ブログの未来」に参加してきた。
引き続き行われた討論では、ブログの持つ社会的意義やビジネスモデルなどについて会場からの発言を交えて活発な意見交換が行われた。
意見が相次いだのは、ブログのメディアとしての特性について。会場からは
(略)
「ブログはそれぞれ発信者の土俵の上で意見を表明する世界なので、共通の場で意見を闘わせるメーリングリストなどと違い、議論に向かない」
私もこの発言をした。たしか「議論できない」と述べたと思う。
ブログの利点は、議論する価値のない相手と議論せざるを得なくなることを自分の意思で(ある程度)避けられる点にある。
対照的なのは、USENET(あるいはfj.*という特定の運営方針に基づくその一部)やメーリングリストなどであろう。
かつて学部生時代に fjを体験したとき、参加者が対等な立場で徹底的に議論を尽くすという世界に、驚きと、苛立ちと、可能性を感じた。
苛立ちを感じたのは、それまでの自分には、「自分と異なる意見を持つ人がこちら側の考え方に配慮せずに持論だけ展開するという態度に対して、嫌悪感を感じるだけで、それ以上の行動に出られない」という未熟さがあったためだった。
この苛立ちは、自分も議論に参加するようになって、すぐに解消されることになる。議論には技術が必要だった。fjという場は実名主義であり、発言のひとつひとつにはとても慎重さが求められた。他の人たちがやっているたくさんの喧嘩を観察して、どう言うとどうなるかを学習しまくった。議論の技術を身に付けると、そこは理想郷のようにも思えた。身分に関係なく事の本質だけを問題にでき、時間の制約なしに議論が尽くせる場だ、と。しかし、そこは不毛の地でもあった。互いに議論の技術を切磋琢磨し合うという意義はあったものの、それ以上の何か目的といったものはあまりなかった。どんな目的で発言しようが自由であるという完全にフラットな世界だったためだろう。
次に、参加が自由なメーリングリストを経験した。そこは、対等な議論という特性は維持しつつも、一定の目的を持った場であり、目的から外れる発言はある程度抑制される場であった。これは、全員にメールで届けるという仕組みから、発言は半ば強制的に全員に読ませることになる(実際には読み飛ばす人がいるにしても)という特性から得られる抑制効果であろう。
これらの場でうまくやっていくには、発言に対して何らかの指摘があったら、それは必ず最後まで反論(もしくは一部には同意)し尽くさねばならない(メーリングリストではその場の目的を逸脱しない範囲で)。「反論がなければ同意したものとみなされる」というのは極論かもしれないが、読者の何割かは、論点を自力で追えなくなると、最後の主張が「正しいらしいんだ」ということにして済ましていると考えられる。その割合が小さかったとしても、後に蒸し返されたり、水面下で不満が溜まり続けていつか爆発するという事態を招きかねない。
たとえ揚げ足を取る指摘(大半の読者はそれが本論に影響しないとわかっていると予想されるつまらない指摘)であっても、ひとつひとつ論理的に否定していくことは、読者のすべてを説得するつもりがあるならば、それは不毛なことではなく、重要な作業である。
それに対してブログではどうか。コメント欄を使わず、リンク元の表示だけをするという使い方をする場合では、揚げ足取りを相手にする必要性が十分に小さくなる。
誰かがリンクしてしてきてどこかで揚げ足を取っていたとしても、それを読みに行く人の数は、自分の記事を読んだ人の数よりかなり少なくなる。この割合は、日ごろ何を書いているかによって左右されるだろうし、あるいは相手が日ごろ何を書いているかによる。
相手先の指摘に反論しなかったとしても、メーリングリストの場合と異なり、反論できないからだと解釈する人は少ないだろう。そうであるが故にいちいち反論しないのであり、そうなのだから「反論できないからだと解釈する人」はますます減ることになる。
同じブログでも、コメント欄を積極的に活用している場合はそうはいかない。指摘がたとえ揚げ足取りなものであっても、きっちり反論し尽くしておかなくてはならなくなるのは、同じ文章を全員が目にするという、メーリングリストと同じ状況となるからである。しかし、コメント欄で突っ込んだ議論を展開するのは無理がある。他の方のところで、それが破綻している例をいくつも目にした。
あるいは、破綻を避けて、コメント欄の指摘をほとんど無視するという使い方もある。本文とコメント欄を対等でない関係としてとらえる場合だ。ブログの主が著名人である場合は、そうした使い方も成り立つであろう。著名人に対してコメントを述べる行為には、少なからず甘えが生ずる。この甘えから、つまらない揚げ足取りや、誹謗中傷が書き込まれる可能性は高くなっていくが、それが誰の目にも明らかであれば、それを相手にしなくても済まされるわけだ。日経IT Proの読者コメントと記者の関係などはそうしたものだろう。
自分の場合は、そのような関係に甘んずることが性に合わないので、むしろコメント欄での議論はしないと表明し、長いものは削除するという方針で使っている。
これがデジタルコアの席で「議論できない」と述べた趣旨である。トラックバックしあってゆったりと意見を出し合うという意味での議論ならば、「できない」ということはない。細かい論点を全部出してひとつひとつ潰していくというタイプの議論が「できない」という意味のつもりだった。コメント欄やトラックバックの応酬では、それはできないと思う。そういう部類の議論は、メーリングリストを活用したほうがよい。
そういう状況の中でブログを使っているのは、既にわかっていることを、まだ知らない人々に見せるという目的でやっているからだ。議論することが目的ではない。議論の余地のあることはできるだけ書きたくない。
逆にこれをメーリングリストで展開することは難しい。一方的に最初から全部の論点を挙げて長文の主張を流すという行為は不自然であるから、何らかの突込みどころをわざと設けて、議論を誘って自らの主張を少しずつ出していくというスタイルをとらざるを得ない。
崎山伸夫氏が次のように述べている。
前回、私はWinnyについての高木さんのコメントについて、いくつか問題点を指摘した。しかし、高木さんには読んで頂けていないようで、認識をあらためることなくさらにその先へとすすんでいるようだ。この高木さんのスタンスについて、私は率直にいって失望しているし、高木さんが誠実な議論を行っているようにも思われない。あらためて、具体的な問題点を前回以上に指摘したい。
その「指摘」は取るに足らないものばかりだったのでそのままにしていた。しかし、次の反応も出てきた。
[追記]2004.06.11
「圏外からのひとこと」経由で知った、崎山さんの記事「技術者の倫理を問う」の中で、高木さんの記事「市民の安全を深刻に害し得る装置としてのWinny」には多くの嘘があることが指摘されています。
私は、同じ記事の中で
IPv6を使うなどして、ひとつのコンピュータで多数のIPアドレスを保有し、アプリケーションごとに別々のソースアドレスを使用することで解決できる。これが、将来の理想的なプライバシー維持型消費者向けインターネット環境であろう。
という部分を見て、これは嘘ではないかなあと思っています。さらに、技術者がこの程度の単純な勘違いをするとは思えないので、故意に嘘を言っているのだろうかという印象を受けました。
この方は、別の日の記録で「技術に詳しい方に方法を考えていただければ嬉しいです」と述べられているくらいなので、技術に疎い方なのだろう。そうした方が、崎山氏の文章によって、「技術者がこの程度の単純な勘違いをするとは思えないので、故意に嘘を言っているのだろう」とまで考えてしまう影響を受けているようだ。
というわけなので、崎山氏の指摘に反応しておくことにする。
高木さんはたとえ完全な匿名性の提供が必要であるにしてもテキストだけで十分ではないかとしている。しかし、それも誤りではないか。テキストさえ扱えるなら画像や映像も扱える。高木さんが、まさかMIMEのbase64 encodingなどの手法を知らないということはあるまい。
話はすべて程度問題である。不可能にする必要はない。使い勝手が悪ければ十分。ファイルサイズに上限があれば、分割して流さざるを得なくなり、受け手がある程度限定される。
また、「十分ではないか」と言っているように、システムの設計意図のことを言っているのであって、どう使い得るかの話ではない。
また、テキストだったらプライバシーの被害が全くでないということを言っているわけでもない。
他のエンコード方法はいくらでも作ることができる以上、「テキストに限る」ことができなければ刑事罰、という話ではアンマリではないか。
そんな話はしていない。
さて、あとは蛇足だが、高木さんは「Winnyの脅威」を強く述べるためか、やや現実から遊離した話をしているように思われるので指摘しておく。
「積極的に他人のプライバシーを侵害する目的」で、「そこそこ名を知られた人がトイレで用を足しているところをビデオカメラで撮影し、その映像を放流するといった行為」がWinnyで行われるのではないか、とある。が、それはWinnyに限定されない話だ。各種報道によれば、昨年秋に芸能人のトイレや温泉での盗撮だとされる裏ビデオが登場し、最終的には少なくない週刊誌に掲載され、「上品でない」一部の雑誌はそれらの映像そのもの(略)をDVD-ROM に収めて一般の書店で販売した、という実績がある。
(略)
少なくとも出版物で許されているものをインターネット上のものでは許されないとする理由は乏しい。
その反論は予測済みだったので、「有名人が」とは書いてない。
たとえば、そこそこ名を知られた人がトイレで用を足しているところをビデオカメラで撮影し、その映像を放流するといった行為がそれに該当する。
と書いている。週刊誌に掲載されたりすることまでは至らない一般の人のことを想定している。(週刊誌に掲載される事例には別の原因構造が絡んでいるだろう。)
一般の人を例にすると今度は、「まったく名を知られていない人ならば、悪意を持って流す動機がないじゃないか」などという反応もあり得ると考えたので、「ある程度知られた人がトイレで用を足しているところ」という例を代表例として抽出した。もちろん、他にもいろいろのケースがあり得る。漫画雑誌月刊アフタヌーン連載の「アキバ署!」で出てきた例も実は浮かんでいたのだが、「最初に撮らせる奴の自業自得」という反応が来ることが予測されたので、代表例から避けている。
「少なくとも出版物で許されているものを」と言うからには、特定の事例で指摘したところで全部を否定することにはならないことは、当然ながらご自身お気づきのことだろう。
また、「Winnyに限定されない話だ」とかいう点については、6月8日の日記にも書いたとおりだ。
次にUsenetについて。たしかにUsenetでは記事のキャンセルはできた。しかし、高木さんも認識しているように、不正キャンセルが相次いだ結果、記事のキャンセルを無効とするサイトが少なからず出現したことも事実であり、初期の理想はともかく、現実のUsenetではキャンセルは「やらないよりまし」というコントロールに過ぎず、一度送出した記事の完全な取消は期待できない。
システムのその時点での設計意図のことを言っているのであって、完全性があったかどうかは議論に影響しない。
また、Pathによる発信者記録にしても、 mail2newsゲートウェイと anonymous remailerの組み合わせによってトレースが限定される状況を許容してきたのも、現実のUsenetだ。その匿名性は、現在でもコードが保守され運用が続いているmixmaster remailer であればかなり強力なものだ。remailerの場合、受信者が匿名でなかったり最終段でUsenetあての平文になったりするため、そこでメッセージをコントロールできる余地があるという意味ではWinnyとは同一視できない部分もあるが、しかしUsenetを持ち上げつつWinnyをことさらに悪く述べてみるという手法には、違和感を感じる。
ゲートウェイや、anonymous remailerが責任を問われ得るという点が異なる。もちろん、匿名性の提供を売りにして覚悟を持って運用するのはそれはそれでけっこう。要は、そうしたバランスがとられる余地があるかどうかだ。
「同一視できない部分もあるが」とあるように、ご自身お気づきのことだろう。
このように、5月18日の指摘は反応するに値しないものばかりだったので、特にコメントする必要性を感じなかった。しかし、31日には、
いくつか問題点を指摘した。しかし、高木さんには読んで頂けていないようで、認識をあらためることなくさらにその先へとすすんでいるようだ。
などと言われている。
Winnyと比較されている USENET はそもそも高木さんが述べているようなものなのか?高木さんの説明には多くの嘘がある。Path: ヘッダは、そもそも 「発信者追跡」のためにあるのではない。
(略)
その目的は発信者追跡ではなくループ防止である。
(略)
このように Path: ヘッダの利用は当時の技術的水準においてニュースシステムを実装するにあたっての技術的合理性からもたらされたものであって、「追跡可能性」は単なる副産物であった。
目的は常に唯一つに限定されるというわけではあるまい。複数の目的があってよい。また、仮に当初の意図として目的に含まれていなかったとしても、後に結果的にその目的で機能していたことによって普及が確保できたのであればそれでよい。私の論には影響しない。
さらに述べるなら、NNTP以前はホストコンピュータ上でのアカウント管理と結びつくこの追跡可能性は個別ユーザへの追跡可能性となっていたが、それは NNTP 導入とともに即座に喪われた。投稿ホスト表示である NNTP-Posting-Host ヘッダの導入は NNTP 導入よりも後であるし、また、NNTP-Posting-Host ヘッダがあっても記事の日付はクライアントで設定するものが優先されることがプロトコル上の動作であり、また個別の NNTP daemonの挙動として投稿者のトレースが容易であるようなログが長期にわたって保存されるという状況は、確立したのはかなり時代が下ってからであり、投稿者をより確実に特定できるような情報をヘッダに導入するという工夫は個別に試みられたケースは少なくないもののどこのサイトでも標準的に利用するということにはならなかった。
私の論に影響しない。NNTP-Posting-Hostフィールドを追加した意図、ログを保存するようにした意図があれば、私の論には十分である。「確実に特定」という話もしていない。
cancel機能についても、荒らし以前の問題としてそもそもニュース配送は信頼性がないことが前提とされ、それは記事のcancelも同じである。
私の論には影響しない。設計において導入を当然に検討してしかるべき機能の話をしているのであって、USENETの事例においてそれが必ず有効に機能することが保証されていたかどうかは、関係がない。
cancelというのは所詮その程度のものとしてしか作られていない。現実に、誰かがプライバシー侵害を目的としてニュースシステムに記事や画像データを放流した場合、そのデータが完全に削除される見込みはほとんどないだろう。
「完全に○○ないのだから□□」という話は無意味である。(6月8日にも書いた。)
また、USENETでは一度通過したものが逆流してくることがない。完全に削除される見込みがないといってもその場に残るだけであり、それに対してWinnyの場合では、どこかにある限り、検索されれば再び拡散し始める。このように、「完全に削除できる/できない」とかいうレベルの思考はどうでもよく、その先にある性質の違いが重要である。
また、情報発信者の匿名性については、高木さんは基本的に代理人を立てることで十分とする立場のようだ。しかし、それは前回も書いたが、誤りだ。「情報窃盗」という犯罪を作ろう、という動きが経済産業省の手によって現実の政治の舞台にのぼりつつある。しかし、例えば内部告発者というのは、多くの場合、形式的には情報窃盗を行っている。そのうえで、内部告発者がどれだけ保護されるかといえば、ほとんど保護されない。
当然ながらそうならないように「情報窃盗」を定義することにならざるを得ないだろう。定義に無理があるならこれまでのように見送られるだろう。
高木さんはワームとWinnyを並べて『取り返しのつかないプログラム』だとしている。しかし、それらは全く別のものだ。ワームは、計算機の脆弱性を利用した自律エージェントとして、ワーム作者以外は誰も望まないコントロール不能な増殖を続ける。一方、Winnyの『取り返しのつかなさ』は、単に人々の欲望通りに動き、法執行機関の能力によってさえもいかんともしがたいことを『取り返しのつかなさ』と呼んでいるに過ぎない。
それは浅はかだ。6月8日の「良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つ ―― ファイル放流システム」にまとめたように、Winnyは、人々を自分が何をやっているのか正しく意識させない工夫をしている。努力すれば気づくかもしれない人達でさえ、気付こうとすることからあえて逃げてしまう、そういった心理的作用が働いている。
この高木さんのスタンスについて、私は率直にいって失望しているし、高木さんが誠実な議論を行っているようにも思われない。
正直、「失望している」などと言われるのは蕁麻疹が出る思いだ。「失望している」と言って浴びせかけるからには、そう言われた私ががっかりすることを期待しているのだろうが、そのような的外れな期待が一方的にされていることに吐き気をもよおす。
なぜ私があなたと同じスタンスに立たって期待されなければならないのか。そんな必然性は最初からない。私は、個々の事案について個々の論点をただ積み重ねているだけであって、原理的な原則論の朗読には全く興味がない。
リベラリストは、多様な判断と、世の中の不完全さを許容する。
私の知ったことではなかろう。
上で引用した、
[追記]2004.06.11
(略)
私は、同じ記事の中で
IPv6を使うなどして、ひとつのコンピュータで多数のIPアドレスを保有し、アプリケーションごとに別々のソースアドレスを使用することで解決できる。これが、将来の理想的なプライバシー維持型消費者向けインターネット環境であろう。
という部分を見て、これは嘘ではないかなあと思っています。
だが、これは、引用部の直前に書いてある部分を読まずに言われているのだろう。引用部の直前を復元するとこうなっている。
そういうこともあるので、IPアドレスは固定でなくするべきである。このことについては、去年の5月25日の日記などで書いてきた。さらに特定される可能性を避けるためには、 2月8日の日記で書いたように、IPv6を使うなどして、ひとつのコンピュータで多数のIPアドレスを保有し、アプリケーションごとに別々のソースアドレスを使用することで解決できる。これが、将来の理想的なプライバシー維持型消費者向けインターネット環境であろう。
おそらく2月8日の日記を読んでいないのだと思われる。「アプリケーションごとに別々のソースアドレスを」と書いたのは説明として省略しすぎで失敗だったかもしれない。2月8日の日記では次のように書いている。
つまり、各個人が、使用するサービスごとに異なるIPアドレスを取得して使うのだ。各サービスの独立したユーザIDに一対一対応するIPアドレスを取得するというわけだ。Webブラウザであれば、アクセス先ごとにアクセス元のIPアドレスを異なるものにすることになる。一人が数千個のIPアドレスを使うとしても、IPv6ならばアドレスは枯渇しないだろう。
(略)
ここからさらに、そもそもmailには発信者側からの削除機能が一切存在せず、それはたとえばメーリングリストプログラムについても同様である(アーカイブが削除可能であることは別問題とする)、ということが思い出される。「分散型情報共有システム」において、「一度広がり始めた情報が取り消しできなくなることに恐怖感を覚え」て、「データを削除する機能を取り付けること」が「普通の技術者が当然に考えること」かといえば、それは嘘であろう。少なくとも高木さんが偽の歴史を書いているとは言える。
メーリングリストは分散型ではない。分散型でないものは規模が限定される。程度問題を議論しているのであるから、同列に扱うものではない。
メーリングリストに、ときどき、仕事上の部外秘メールを誤って流してしまう人がいる。そうした事故が起きたときは、事故を起こした者が、他の購読者に削除をお願いして呼びかけることになる。購読者の人達は、受信したそれをどう扱うかは、人それぞれの良心にまかされることになる。
購読者でない人達にまで拡散していくかどうか(「一度広がり始めた情報が取り消しできなくなる」かどうか)には、人の良心が働く余地がある。
良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つ ―― ファイル放流システム
Mailing List はどこに入るんだろう、と考える今日このごろ。
良心に蓋をさせるものではないでしょう。一度流れたらそれっきりで、さらに拡散するかは、通常の手渡し等での拡散とかわらない。