長野弘子氏による5月19日の日経ネット時評には、(長野氏自身による他の部分での主張は別として、)他の誰かの発言を引用して紹介した、次の部分がある。
社会的責任を考える開発者の業界団体CPSR/Japanのメンバーの1人は、今回の逮捕は警察が「追跡困難な匿名性システムを作り上げたこと」にほう助性を見出していることが問題だと指摘する。
同氏はCPSRのメーリングリストで「匿名での情報発信やコミュニケーションの自由は、言論の自由や通信の秘密の重要な一要素」と述べる。さらに、近い将来、ICタグがあらゆる商品に組み込まれ、どの街角にも監視カメラが設置されるという側面を持つユビキタス社会の到来に向けて、「匿名化技術は個人が意識・無意識にばらまく多くの個人情報の集積を制限するという方向で重要になるので、匿名性を確保する技術への萎縮はユビキタスネットワークでのプライバシー確保を高い水準で行えなくなるかもしれない」と警鐘を鳴らす。
この主張を一言で批判すると、「表現の匿名性のために、存在の匿名性を人質にするようなもの」と言える。
「表現の匿名性」と「存在の匿名性」という言い回しは、東浩紀氏が中央公論に連載した「情報自由論」の第9回「表現の匿名性と存在の匿名性」(中央公論2003年4月号)で知った。
私も5月29日の日記で「「匿名性」とは何なのか」という題で、
「匿名化技術」と聞いて嫌悪感を抱く人が少なくないように思われる。犯罪捜査が困難になるなどと危惧するためなのかもしれない。しかし、(略)
匿名性の話をすると、掲示板における匿名性ばかりが注目されてしまうかもしれないが、そのことよりも、電子商取引サイトなどへのアクセスについて、それがあったほうが良いということを言っていることに注意してほしい。
ということを書いてみたが、このときうまく表現し切れなかった両者の区別を、東氏は「表現の匿名性と存在の匿名性」という形で見事に示してくれた。
「表現の匿名性」とは、言論活動など能動的に何かを表現するときに著者の名前を隠すことを指しているのに対し、「存在の匿名性」とは、ユビキタス社会の到来によって、一般市民が生活の場で情報発信の意思がなくても油断すると名前が明らかになってしまうのを、避けることを指している。
「存在の匿名性」は「消費生活の匿名性」と言い換えてもよいかもしれない。
さて、匿名と一口に言っても、その達成度によって異なるレベルがある。このことについて、5月29日の日記でも次のように書いた。
しかし、「匿名」といっても、個人の特定を不可能にするものだけを指すわけではない。複数の主体に分割して管理される情報が、何らかの権限発動によって集積されて初めて個人を特定できるようにするシステム(一部の主体の意思だけでは特定できない)も匿名化技術のひとつである。裁判所の令状に基づいて容疑者を特定するといった余地を残すことのできる方法だ。
(略)
ダイヤルアップ接続の場合、電話をかけて接続する毎に、異なるIPアドレスが割り当てられる。IPアドレスから電話局や地域を特定可能なプロバイダもあるが、IPアドレスが変化するため個人を追跡することは困難になっている。しかし、犯罪捜査にプロバイダが協力すると、IPアドレスと時刻から契約者を特定されることがある。そのプロバイダが接続時の認証の記録を保持していればだが。(記録を保持すべきかという議論とは独立であることに注意。)
どんなときに記録を開示するか(あるいはそもそも記録をしないでおくか)は、ISPによって様々な方針があってよいだろう。断固として開示せず訴訟リスクを背負う代わりに、利用料金が高いISPとか、ホイホイと開示する代わりに利用料金の安いISPがあってもよいのではないか。そのときその方針が利用者に予め示されていればよい。
匿名の達成レベルを、たとえば次のように分類してみる。
接続プロバイダは電気通信事業者なので、レベルG〜Eということはあり得ないが、一般の掲示板運営者をISPととらえれば、どのレベルの可能性もある。ネットショップなどの利用記録を想定した場合は、Gのような会社もかつては存在したし、利用者の承諾を得て第三者に提供するというビジネスもある(IPアドレスが提供されるということはないだろうが)。
消費生活の匿名性(存在の匿名性)を考えたときに、IPアドレスが誰のものなのかISPに照会して個人を特定できるかというと、それはあり得ないことのはずだと多くの人が考えているだろう。たとえば、「商品を閲覧してくれたお客さんにリーチしたいがために、そのアクセス者のIPアドレスからISP(接続プロバイダ)に照会して連絡先個人情報を得る」などということはあり得ない。あってはならないことという常識がある。
ところが最近になって、その常識が覆ってしまうおそれが出てきた。低コストRFIDタグの消費財への埋め込みであり、長野氏が誰かの発言を引用しつつ紹介した、
近い将来、ICタグがあらゆる商品に組み込まれ、
という状況である。これは、固定された固有IDが誰にでも読めてしまうために「共通ID」として機能してしまうという、アーキテクチャ上の脆弱性が原因であり、それがどういうものなのかは、ここではもう説明の必要はないだろう。
もっとも、すべての人がそれを危惧するわけではない。商品を閲覧しただけで自分が誰であるか把握されてしまうことが、どんな相手の場合であっても気にならないという人もいるかもしれない。
信用できると確認済みの相手ならかまわないが、任意の相手に把握されるのは困るという人は多いだろう。また、どんな相手であっても、自分が許可したときだけ(注文を発行したときだけなど)にしか把握してほしくないという人もいるだろう。あるいは、いかなる場合も匿名のまま消費生活を送りたいという人もいるかもしれない。
このように、消費生活の匿名性も、どの状況によってそれを求めるかは、人それぞれの価値基準により異なる。
一方、表現の匿名性も、どれだけ求めるかは人それぞれ異なるだろう。匿名での発言そのものを嫌悪する人もいれば、匿名での議論の方がより深く議論できると主張する人もいるし、告発のために表現の匿名性は確保されねばならないと考える人もいれば、たとえ犯罪の温床となろうとも完全な匿名表現の場は用意されていなくてはならないと考える人もいるのだろう。
表現の匿名性にとっては、先に述べた匿名レベルの違いが重要となる。「犯罪の温床になろうとも用意されていなくてはならない」という考えの人は、Aの匿名レベルを求めるのだろうが、「匿名での議論の方がより深く議論できる」という必要性においてのみ匿名性を求める人にとっては、DかC程度の匿名レベルがあれば十分と考えるかもしれない。
この中からどの立場を選択するかは人々の自由であり、いよいよ社会としてどれを選ぶかを決めざるを得ない時がきたなら、それは民主的に選択されるべきとしか言いようがない。
問題なのは、人々が、自分がどの立場にいるのかを理解していないかもしれないという危惧である。
一昔なら、人口の1割未満の人しかインターネットに接したことがないために、たとえば、匿名による議論というものがどういうものか想像が及ばずに、掲示板を忌み嫌うシーンが多かったのが、このところかなりの割合の人がインターネットに触れるようになったせいか(マスコミも2チャンネルを頼りにするようになったせいか)、マスコミにおけるネットに対する態度にも変化が訪れているように感じられる。
大半の人が未経験であるが故に理解していないことを、経験前に理解できるよう情報を提供するのが「専門家」(あるいは「先走った経験者」でもよい)の役割であろう。
求める立場を理解した上で選択するにあたっては、選択は誰にでもできることであって、「専門家」が選択してみせる必然性はない。
私は、RFIDタグやサブスクライバーIDのプライバシー問題について、多くの人々に理解されていないであろう論点を整理して見せることに注力してきたのであって、最終的にどの立場を選択すべきかなどといったことは(ほとんど)主張していない。
それに対して、冒頭に引用した「メンバーの1人」の主張はどうだろうか。
同氏はCPSRのメーリングリストで「匿名での情報発信やコミュニケーションの自由は、言論の自由や通信の秘密の重要な一要素」と述べる。さらに、近い将来、ICタグがあらゆる商品に組み込まれ、どの街角にも監視カメラが設置されるという側面を持つユビキタス社会の到来に向けて、「匿名化技術は個人が意識・無意識にばらまく多くの個人情報の集積を制限するという方向で重要になるので、匿名性を確保する技術への萎縮はユビキタスネットワークでのプライバシー確保を高い水準で行えなくなるかもしれない」と警鐘を鳴らす。
「ICタグがあらゆる商品に組み込まれ」ることによってもたらされるプライバシー上の問題点を懸念するのは、どの立場を選択する人達が該当するかというと、先に述べたように何種類もの立場が該当する。「匿名での情報発信の自由」を求めない人でありながら、「ICタグがあらゆる商品に組み込まれ」ることには懸念を示す人は多いはずだ。
最近ようやくテレビなどでも、RFIDタグにプライバシーの問題が存在することが紹介されるようになり、消費生活の匿名性を求める人々が、ちょうどこの種の問題に目覚め始めたところと思われる。
上の主張は、そこに便乗する形で、「匿名での情報発信」までもが必要だと主張しているように見える。匿名での情報発信を阻害すると、ユビキタス社会でのプライバシー(消費生活の匿名性)も必然的に失われるかのように暗に言っている。
未だ、消費生活の匿名性におけるRFIDタグの問題を理解していない人々が、この主張を聞かされると、「匿名での情報発信の自由」を無差別に求めることを是認しない立場の人は、問題の整理ができておらず理解が足りないが故に、すべての種類の、すべての状況での、すべてのレベルの匿名性は不必要であり、悪しきものだと考えてしまうおそれがある。
ユビキタス社会での消費生活上のプライバシーを確保するには、Winnyを擁護し認めなくてはならないのか? そのような直感から、価値判断としてWinnyを否認する人が、結果として、RFIDタグを受け入れるという判断をしてしまうことになりかねない。
そういった展開は避けられるべきことである。
「匿名化技術は個人が意識・無意識にばらまく多くの個人情報の集積を制限するという方向で重要になるので、匿名性を確保する技術への萎縮はユビキタスネットワークでのプライバシー確保を高い水準で行えなくなるかもしれない」と警鐘を鳴らす。
これは乱暴なこじつけである。
Winnyの「匿名性を確保する技術」は、発信者(Upフォルダに入れてファイルを放流した人)を匿名にする、つまり「表現の匿名性」を確保することを主眼に置いている。
中継者の自覚を避けるためにファイルが暗号化されているため、結果的に、消費生活の匿名性(ダウンロードする者の匿名性)も確保されたが、また、検索リクエストが暗号化されることでもダウンロード者のプライバシーが保護されたが*1、これは、Winny固有の話ではなく、ネットショップにSSLで接続する(消費者の通信内容を暗号化する)の話と違いがない。
仮にWinny事件の影響で「匿名性を確保する技術への萎縮」が起きたとしても、SSLの利用に対する萎縮が進むはずがないわけであり、上の点での消費生活の匿名性には何ら影響しない。
次に、P2Pによる通信は、消費者が直接通信する先が、サーバではなく隣のpeerとなるため、サーバ(情報提供者)に消費者側のIPアドレスを知られなくて済むという点で、匿名化されていると見ることはできる*2。
しかし、IPアドレスから個人を特定されるかというと、消費生活の匿名性として求められるレベルの匿名性であれば、先に整理したように、ISPがそのような目的のために開示することはあり得ない。
残るは、IPアドレスが固定の共通IDとして機能してしまうことによって、トラッキングによりプライバシーが損なわれる危惧であるが、これは元々回避されるべきことであり、どうすればよいかについて、これまでにも何度も書いてきた。2月8日の日記や、昨年5月25日の日記に書いた通りである。
P2Pや多段中継によって消費生活の匿名性をさらに高めるということも考えられるが、それは必須のものではないし、また、それは中継点でログをとることを前提としたものであってもかまわないのであるから、仮にWinny事件の影響による「匿名性を確保する技術への萎縮」が起きたとしても、それらが否定されることにはならない。
にもかかわらず、萎縮する萎縮すると言い続けることは、むしろ、技術を知らない人達に、「それは萎縮してしかるべきことなんだ」と感じるようにさせてすらいる。いったい何がしたいのか。
同氏はCPSRのメーリングリストで「匿名での情報発信やコミュニケーションの自由は、言論の自由や通信の秘密の重要な一要素」と述べる。
1対1の通信が行われている場合については、憲法が定めた通信の秘密は当然ながら最大限に配慮されるべきである。では、ミクロには1対1の通信で構成されるものの、マクロな様態としては放送に類似するような、不特定多数への情報発信(自動公衆送信可能化)行為は、憲法の通信の秘密にどのように関係するだろうか。
ダウンロードする側には、同様の通信の秘密が確保されるべきと言ってよいかもしれないが、自動公衆送信可能化している側には関係がないだろう。Winnyに当てはめれば、少なくとも、Upフォルダに入れた行為に対して、通信の秘密云々言うのは妥当とは思えない。(キャッシュを自動公衆送信可能化している状態については、わからない。)
したがって、このWinnyの話の文脈で、「通信の秘密」を持ち出すのは不当である。「匿名での情報発信」「言論の自由」だけを言うべきである。
以上のことから、この主張は、「表現の匿名性のために、消費生活の匿名性を人質にするようなもの」であり、害を有している。
もっとも、この発言は1個人がCPSRのメーリングリストで発言したものを、別の人が取り上げたに過ぎないのであり、CPSR/Japanの公式見解というわけではないと信じている。(私はそのメーリングリストを購読していないので、実際にどのような流れでの発言だったのかは知らない。)
CPSRとは、「Computer Professional for Social Responsibility」すなわち「社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会」だという。CPSR本部の活動の内容やこれまでの歴史を詳しく知らないのだが、名前から感じられるところからは、(非限定的自由を優先するといった価値判断を含まずに)コンピュータ専門家として社会的責任の観点から、非専門家の気付かない部分の情報を提供していく団体のように私には見える。というか、そのように期待している。
私も4年ほど前だっただろうか、CPSR/Japanが設立準備の段階のとき、山根さんに口頭で参加をそれとなく呼びかけられたが、私の期待するものと違って、価値判断を剥き出しにし、個人的基準を主張のベースとして外さない輩が、必ずや参加してきて大きな声を出すだろうと予想したので、今まで団体へ参加することなしにいる。
Winnyの負の面に関するコンピュータ専門家の考える社会的責任というものも、聞こえてきてしかるべきだと、私は思うし、期待している。
崎山伸夫氏がblogで6月16日に次のように述べている。
ETCにおける決済はクレジットカードのシステムが利用されている。高速道路におけるクレジット決済については
つまり、誰が何月何日にどこからどこへ移動したかが、カード会社に伝達されているのだ。(中略) 日本道路公団だけが違う。どうしてこうなっているのだろうか。たぶん、何も考えていないが「マジメ」な人が仕事をしているんだろうと思う。
という秀逸な指摘が存在するわけだが、同目的の同様のシステムに関して、「ナンバープレートはプライバシーではない」から問題ないという形で「ETCになんとなく疑問をもつ人」の関心が遮断されるような話になるのはいったいいかなることなのだろう?
これは、私の6月9日の日記「ポジティブキャンペーンが必要なのか」で、次のように書いたことに対する指摘である。
「今やICカードでトラッキングされるからと言ってSuicaを使わない人はいない」「高速道路のETCだって、あれでいちいちトラッキングされるとか考えていたらきりがない」などと、現在既に使われているICカードなどの例を引き合いに出した上で
Suicaの場合は、JR東日本という比較的信用度の高い企業体だけがトラッキング情報を握っている(はず)なので問題は小さいというのと、第三者が読み出してトラッキングする可能性もあるものの、数センチの距離からしか読めないリーダしか普及していないため、問題が顕在化していないだけだし、ETCについては、自動車にはもともとナンバープレートが付いていてプライバシーがないので比較に当たらない。
これは、「今やICカードでトラッキングされるからと言ってSuicaを使わない人はいない」とか、「高速道路のETCだって、あれでいちいちトラッキングされるとか考えていたらきりがない」というプロパガンダ的手法によって、人々の論点整理を妨げて混乱させる行為(指摘されている問題の本質から目を逸らそうとする行為)に対する、批判としての目的で書いたものなのだから、こういう書き方となるのは当然だ。
つまり、ここでは、Suicaを使うことをためらわない立場を選択する人、および、ETCを使うことをためらわない立場を選択する人だけを対象に、私は呼びかけている(RFIDタグの消費財への埋め込みは別問題なのだと)のであって、それ以外の立場を選択する人たち(ETCの履歴が道路公団に把握されることに問題なしとは感じない人)は、ここの文脈では呼びかけの対象ではない。
自動車の走行履歴が道路公団を通すなどして捜査目的等で警察に取得されることについて、ためらいを持たない立場を選択している人は、少なからずいる(私がそうだということではない)だろう。そうした人が、「高速道路のETCだって、あれでいちいちトラッキングされるとか考えていたらきりがない」と考えるわけであって、その人達の価値基準における「プライバシー」という意味で、「自動車にはもともとナンバープレートが付いていてプライバシーがない」ということを言っているだけだ。「比較に当たらない」と書いているではないか。あくまでも比較の論理の積み重ねである。
そういう簡単なことがわからない崎山氏は、どうかしていると言わざるを得ない。一時的に血が昇って錯乱しているのでないのならば、根本的に議論スキルが欠けていると言わざるを得ない。この能力が改善されるまでは、議論の相手に値しないし、他の読者もそれに引きずられないように気をつけるとよいだろう。
崎山氏が「秀逸な指摘」として参照した、私の2月28日の日記「日本道路公団がクレジットカード会社に伝える個人の位置移動履歴」では、6月9日とは別の価値基準で立場を選択している人達向けに書いたものだということになる。
私の個人的価値判断としては、道路公団からクレジットカード会社に走行履歴が渡されていることは、受容できるものであるが、そのことは関係がない。別の立場を選択する人からすれば、そのような道路公団は糾弾されるべきと感じる人もいるだろうから、この事例について書いたまでである。
また、5月16日の日記「市民の安全を深刻に害し得る装置としてのWinny」において、後半で、
コンテンツ提供者の匿名性と閲覧者の匿名性は別である。それについては
で始まる、匿名性に関することを書いているが、この部分については、その直前に、
昨今、P2Pによる分散型ファイル共有(流通)システムの有益性を主張する人が少なくない。(略)
そして現時点では、ビデオ映像のような大きなデータを瞬時に多くの人達で共有するには、サーバ・クライアント方式では実用にならないと考えられているため、P2P(というか分散型アーキテクチャ)が再び脚光を浴びているわけだ。(略)
そのような場合においてP2Pが有意義だと言われている。DRM(デジタル著作権管理)機構を備えたファイル形式によって、映像コンテンツをどんどんP2P型ファイル共有ネットワークに流通させたうえ、閲覧時にライセンスの購入が必要なようにするといったことが試みられている。
だが、そうした目的の利用においては、最初の提供者に匿名性は不必要だろう。
という文脈がある。
つまり、表現の匿名性を確保することによる言論の自由を求める立場とは独立に(関係ななしに)、ファイルサイズの大きなコンテンツの効率的な配布のためにP2Pが必要だとの立場をとる人々だけを対象として、「そうした目的の利用においては、最初の提供者に匿名性は不必要だろう」と言ったものだ。
続く、
とはいえ、コンテンツ発信者の匿名性を完全に確保するための技術が不要だとは言わない。
から始まる部分は、別の価値を選択する人向けの立場を紹介しつつ、異なる立場どうしで妥協できる点はないかと模索して見せたものであり、「なかろうか」という程度のことを言っているにすぎない。
ちなみに、私がWinnyの件で、自分の価値判断に基づく主張をしたのは、削除機能が欠如している点についてである。発信者特定機能については、考察しただけで、必須だとは言っていない。
価値判断からどの立場を選択するかは、それぞれの人々の自由である。私が言っていることを鵜呑みにするのは、当然ながら危険なことであろう。
*1 これらの暗号化による保護は破られてしまっているが、ここでの議論には関係がない。
*2 逆に、管理されていない、得体の知れないpeerにIPアドレスを知られてしまうことの方が、プライバシーリスクが高いとする判断もある。