もう一週間も前のことだが、哲学者で批評家の東浩紀さんと対談させていただくというおそれおおい企画に参加してきた。これは「本とコンピュータ」12月号に掲載される予定の対談で、日経デジタルコアでもご一緒している仲俣暁生さんに企画していただいたものだ。仲俣さん執筆の日経ネット時評には、「書籍の「無線ICタグ」化に疑問あり」などがある。
そもそも私は子供のころから読書をしない無教養な人なので、プロの批評家の方と対談するなどおそれおおいというか、うまく話がつながるのだろうかと緊張した。でも話題はいっぱいあった。この日記を書き始める直前、山根さんから東さんが中央公論で連載中だった「情報自由論」のことを紹介され、それにコメントするぞというのが日記を書き始めた目的のひとつでもあった。
連載の記事を入手するのに手間取り、読み終えたのはずいぶん後だったのだが、いずれの回もとても興味深いものだった。プライバシー問題について考える人すべてにおすすめだ。来年に単行本として出版されるそうだが、ずいぶん先なので図書館に行って中央公論を探そう。
1時間半ほど対談した後、食事会と2次会に行き、あれやこれやとお話しした。その中で特に意気投合したのが、反対運動を目的化してしまった人たちによる批判がもはや、批判としての力をなくしているという現状への嘆き(うまく表現できないけど、こんな言い回しで合ってるかなあ……)だった。
ありていに言えば、住基ネット反対派の批判の声がもう、行政官や専門家どころか、一般の技術者や市民にさえも耳に入らなくなっているという事態。これが飛び火して、普通のプライバシー議論までもが邪険にされるという始末。
たとえ「反対派」の人たちが反対運動を自己目的化して安住してしまっているのだとしても、論理として存在する批判そのものは聞き入れるべきなのは当たり前なのだが、この国ではそれが通用しないらしい。「どうせ、あの人たちは○○なんだから、ああいうバイアスのかかったことを言ってるんでしょ」という発言が、偉い先生からも飛び出してくる。
ユビキタスコンピューティング社会が近づくにつれ、何かしらプライバシーの問題がありそうな気はするけれども、「別に問題ないよ」という一言で片付けられてしまうという状況。
私のアプローチは、技術的に掘り下げることによって、いくつかの設計・実装が明らかにプライバシー上の問題を含んでいて、技術的に解決可能な方法が存在する場合があることを示し、それによって、プライバシー問題の議論は検討するに値する部分が少なからずあることを示すことだった。
それに対して、東さんのアプローチはおそらく、プライバシーが損なわれていくのはもはや止めようのないことだと受け止めて、それが人々をどう変えていくのかということを明らかにすることで、それでよいのかを問うというものだったのかな、と思う。
情報自由論には、私の視点から突っ込めそうなところがいくつかあった。それはまたそのうちにここに書いてみようと思う。