8日の日記に頂いた「どう思われますか?」という脈絡のない不可解なコメント。何なんだとスラッシュドットを見に行ってみると、どうやらこれ「ご冗談でしょう、八田真行さん」のことらしい。
そこからいろいろ見てまわるとたどり着いたのが、「部 室」という掲示板にあった次の発言。
萌えクリコモ本 : 八田真行 id (reply, thread) - Wed Oct 08 14:34:45 2003
くそう、おもしろそうだなあ。CCを叩いてしまった手前手出しできん。
ちなみに、一般的に言って、他人を叩くとろくなことがないです。だいたいにおいて。
これを見て、薄ら寒い思いがした。目つきのヤバい少年がナイフをシュッ・シュッと振り回しながら街を徘徊している情景が目に浮かんだ。
「CCを叩いてしまった」というのは、これ「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」のことらしい。これは発表当時に通りすがりに読んだ記憶があったが、これが「叩く」という意識の下で書かれていたことを知らされ、ぞっとした。
最初にこの記事を読んだときの印象は、「その通りだけれども、それを言ってどうなるの?どうしたいの?」というものだった。何か据わりの悪いものを感じてその場を去った記憶がある。それが「叩く」という意識の下で書かれていたとは、どうりで気持ち悪かったはずだ。気持ち悪さは次の結びの文に凝縮されている。
そんなわけで、筆者としては、このような暗い見通しを持っているのだが、あと数年で、このような見通しを吹き飛ばすような普及をクリエイティヴ・コモンズが遂げてくれればと願うばかりである。
今になって読み返してみると、この記事で著者が言いたいことは、他の著作物と違ってソフトウェアの場合には、
保守や付随するサービスで収益を上げることができる、というのがオープンソースのロジックである。
という主張などに主眼があるのだろう。
つまり、オープンソースというものが世に正しく理解されていない現状がある中で、オープンソースとは何かということを単純に正攻法で説明するのではなしに、オープンソースとは似て非なるものを挙げて違いを示してみせることによって説明に代えるという、効果的な説明手段のひとつだ。
そうしたやり方は八田氏の他の記事にも見てとれる。「オープンソースの現実、と若干の理想(上)」は、
他人の文章をあげつらうのはあまり趣味のよいことではない。しかし、それがオープンソースへの理解を深める一助になれば、ある程度は許されるのではなかろうか。
という書き出しで始まり、「同 (下)」では、冒頭にこう書かれていた。
前回は我ながら今ひとつ歯切れの悪い内容で、批判も多く頂戴したが、そうなったのにはそれなりに理由がある。というのは、氏が問題の記事で書いている内容にはやはり承伏しかねる部分があるのだが、一方で別のところで氏が吐露しているソフトウェア開発者としての氏の実感(と思われること)は十分共感できたので、判断に迷ってしまったのだ。
「判断に迷う」とは何の判断のことだろうか。これは、「叩きのめすべき相手かどうか」の判断のことだろう。「あげつらうのはあまり趣味のよいことではない」とわざわざ書いていることが、趣味のよくないことをしようとした自覚を表している。
ちなみに、この後半の記事は(内容そのものは正しいにしても)全く的外れなことを言っている。
そもそも、問題の記事を読んで筆者が最初に違和を感じたのは以下の部分である。
一般にソフトウェアのライフサイクルでは新規開発後に運用と保守・機能拡張を何度か行った後に、再び新規開発をするという過程を繰り返すが、オープンソース手法はそのうちの保守や機能拡張において有効な手法なのであって、新規開発では足かせとなる危険性も高い。筆者の実感では、これは全く逆だ。保守ほどオープンソース開発者の苦手とするものはない。
この後、八田氏は「保守にはお金が欲しいからである」という話へとつなげていくのだが、元記事の佐藤一郎さんの言う保守の話は、そこより前の部分に、
安全保障などの観点からはソフトウェアの開発した企業に頼らずにプログラムの保守・改良が必要であり、そのソースコードが入手できることは重要性となるが、
とあるように、元開発者のことを指しているわけではない可能性がある。誰でも後から改造できる可能性が残されていること、後からコミュニティに参加できる可能性が残されていることを指しているはずだ。さらに言えば、続く部分に、
オープンソースの特性を理解した上で利用すべきであり、セキュリティを含む保守コストを考えると必ずしも安いとは限らない。
とあるように、保守にお金をかけることの重要性について述べているくらいだ。
八田氏のこの「あげつらい」は、もはや言いがかりレベルのものでしかない。相手が何を言っているのかについて、複数の可能性を検討することなく、自分の主張の展開に利用するのに都合のよい解釈をした時点で思考が止まってしまうらしい。
その端的な例が、彼の9月6日の日記にあったようだ。
この坂村健先生の書評なのだが、二点理解に苦しむ点がある。
GPL(The GNU General Public License; 一般公開仕様許諾書)で有名なFree Software Foundation(FSF)GPLは仕様を公開しろと言っているんではなくて、ソースを出せと言っているのです。GeneralとPublicはともかく、なんで原語にない「仕様」が出てくるのかよく分からない。
坂村さんは前もどこだったかで「TRONは仕様が公開されているからオープンソースだ」というようなことを話しておられた。ゆえに、本気で「オープンソース==仕様の公開」だと思い込んでいるのではないかと危惧される。
普通、「一般公開仕様許諾書」が「一般公開使用許諾書」の漢字変換ミスの可能性が高いことには容易に想像が及ぶだろう。彼は、続く段落の主張がしたいばかりに、その可能性を切り捨ててしまうようだ。
このように彼は、以前から継続的に、叩きのめす獲物を探してまわっていたようだ。どうにも彼の記事には気持ち悪いものが残ると薄々感じていたが、そういうことだったらしい。
さて、ここでハタと気づかされたのが、じゃあ自分はどうなのかという自戒の念である。
固定IDのプライバシー問題が理解されていないという現状がある中で、理解していない人の発言をあげつらって、こいつはわかってないぞと叩きのめすことによって、効果的に、あるいは効率的に、自らの主張を展開してきたのではないか。
そうかもしれない。
だが、相手の意図を取り違えて批判することほど取り返しの付かないことはないのであるから、そこは慎重にしてきたつもりだ。また、公式性の高い文書(個人による文書ではなく、組織による文書)についてだけターゲットとするようにしてきたつもりだ。
知り合いが関係者である場合であっても、それでもあえてWeb日記であげつらうこともした。それはそうすることがそのケースでは問題解決のために効果的だという判断の上での辛い選択だということは、7月18日の日記で告白した。
よくよく考えてみると、Web日記というもの自体が、そうしたあげつらいによって成り立っているようにも思えてくる。日記なのだから個人の勝手な感想を書く場として認められている。いやそうであるはずだ。書く人も読む人も、そうであるはずだという暗黙の共通認識があるからこそ、多少きわどい主張であっても許され、そしてそこに他の場では得られない楽しみを読者も見出すことができているのだろう。
しかし、批判という手段が自己目的化してしまうのはいかがなものか。
私の日記はどうだろうか。目的化してはいないはずだと思う。最近、書くことがなくなってきたのは、目的がある程度達成しつつあるからなのだから、そのはずだ。
たぶん。きっと。そうかも。