一昨日の続き。PC-8801mkIIは動いた。ディプレイが見当たらなかった(何を使っていたかさえ思い出せない)が、PC-9801M用に使っていたPC-KD851が接続できるようだったので繋いでみたら動いた。ディップスイッチの切り替えが必要だったので、これを使っていたわけではないようだ。PC-8801mkIIをいつ買ったのかも思い出せない。
フロッピーディスクがなぜか1箱しか見つからない。とりあえずそれを挿して電源を入れてみると、「Sn88-DOS」「Disk Operating System for EDAS」とかいう文字が。駄目だ、覚えてない。S-DOSを使っていた覚えはあるが、Sn88-DOSって何だっけ? EDASはアセンブラだっけか。コマンドが全然わからなくて何もできない。
というわけで、古いI/O誌を蔵からサルベージしてきて、全部に目を通すことに。
懐かしくて読みふけってしまった。なぜか一部がなくなっている。1981年4月号がない。それは最初に買ったI/O。中2の春休みに家族で名古屋に出かけたときにたまたま立ち寄った本屋で手にとって衝撃的に買ったものだった。地元の本屋では見つからず、5月号を買えなかったのを覚えている。6月号は隣の駅の町まで行って探して買ったのだった。その数か月後には地元の本屋にも入荷されるようになった。このころが流行の兆しだったのだろうか。9月号と12月号も見あたらないのだがこれは買っていたはず。
1982年10月号から厚さが変になっているのは、広告を取り去ったもの。ドライヤーで背の糊を溶かして広告部分を剥ぎ取り、表紙を貼り付けるという作業をやった。これをやらないと邪魔になるほどI/O誌は広告で激太りになっていったのだった。かなり売れていたのだろうか。発行部数はどのくらいだったのだろう?
1982年までがやたら手垢まみれになっている。むさぼるように読んでいた。1984年以降はあんまり読んでいなかったっぽい。1986年を最後に買うのをやめたようだ。
1984年10月号のBIOS(p.321)に読者アンケート(1984年7月号)の結果が載っていて興味深い。3012人の回答者の内訳が、小学生が4.9%、中学生が24.4%、高校生が27.8%、大学生、短大生が7.7%、大学院生が1.2%、コンピュータ技術者が3.1%、コンピュータ関係以外の技術者が12.9%、技術者以外の会社員が6.8%などとなっている。プロは読まないホビー誌ということだろうか。男性が99.3%で、女性が0.7%(19人)というのがすごい偏りっぷりだ。「あなたがプログラムを作れる言語は何ですか?」の問いに、BASICが86.7%、アセンブリ言語が34.8%、FORTRANが16.1%、「作れない」が7.5%、COBOLが4.9%、Pascalが4.0%と続く。Cはこの時点で1.7%だった。
影響を受けた重要な記事(ゲームを除く)をメモ。
1981年7月号まではナイコン族で、芸夢狂人氏の「ルナシティSOS」「スネークワールド」「THE GUARDIAN」の記事を眺めては溜息をつく日々だったのだが、7月号の九十九電機の広告を見て辛抱たまらん状態となり、父にねだって買ってもらった。何も買い与えない親だったがこれだけは買ってくれた。夏休みのことだった。
ページの上の端に「ラジオセンターアメヨコビル3F 〜2Fのオーディオから入る」という父の字のメモ書きが!! あぅあぅ。
買って最初にやろうとしたことは、ツクモのセットについていたゲームを動かすこと。テープをカセットレコーダに入れてプレイボタンを押しても何も起きない。いったい何をすれば動くのかさっぱりわからなかった。画面にはただ「Ok」の文字とパカパカ点滅する「■」があるだけだった。テープには何の説明書も付いていなかった。
カセットに印字されている「MON, *L, CTRL-B, CLOAD"99"」という記述が何かのヒントだろうかと気づくまでに1日はかかった。「MON」というのが何からしいことは本体の説明書に辛うじて少し書かれていた。しかし、キーボードから「M」「O」「N」とタイプしても何も起きなかった。RETURNキーを押すのだということに気づくまでに1日を要した。「MON」の他に「MONKEY」など他のコマンド(コマンドという概念も知らないわけだが)もあり得るのだから区別のために何かの区切りが必要なはずだという推論でようやくRETURNキーに気づいた。
「MON」の後にRETURNキーで「*」のマークが出る。大喜びだった。だが一旦そうなると何か違う状態になってしまうことに戸惑った。何かキーを押すとRETURNキーを押さなくても「?」「*」とタラタラと文字が出てくる。意味がわからなかった。ただ、Lを押すと「?」は出ず、RETURNキーを押すとカチっという音がすることまではわかった。カセットに印字された「*L」はこのことなんだろうと安心した。テープをプレイにするとしばらく動いた後で止まった。
しかしその後が何もできない。「CTRL-B」というのが何なのか全くわからなかった。「C」「T」「R」「L」とタイプすると「?」と「*」がタラタラと出るだけだった。本体の取扱説明書を隅から隅まで読んだがどこにも説明はなかった。(そういえば取扱説明書が見つからない。)
「MON」は鬼門だと一旦諦め、「color」コマンドを試した。しかし色が出ない。「color 1」だと真っ黒になる。「color 2」だと点滅になる。「console ,,,1」が必要だと理解するまでにまた日を改める必要があった。ついに赤やら黄色やらを出すことができた。「見て見てー色が出たよーー!」と親に見せて大喜びだった。
「CTRL」というキーがあるのに気づくまでに何日か要した。さらにそのキーを押しながら「B」を押すのだということに気づいたのは、どういうきっかけでだったのか思い出せない。ゲームを動かすまでに一週間以上かかった。ようやく動かすことができ、しばらくはゲーム三昧だったが、おまけのテープはクソゲーばかりだったのですぐに飽きた。
その後、どうやって理解したのか思い出せないが、モニタコマンドの使い方を覚え、1981年10月号に掲載された芸夢狂人氏の「スペースマウス」をダンプリストから入力することに挑戦した。しかし、16進入力に必要な「A」〜「F」のキーの位置すら探すのに何十秒もかかる状態だったので、とてもダンプリストの入力は無理だった。そこに彗星のごとく現れた救世主が、11月号の「多機能チェンジ・メモリ」だった。チェックサムも計算してくれるし、「A」〜「F」をテンキーの脇に配置してくれるスグレモノだった。
しかしこのプログラムだけは MONで入力しないといけないわけで、ファンクションキーに「A」〜「F」を割り当てて入力した。どうやってチェックサムを計算したのか覚えていないが、間違っているところを鉛筆でマークした跡がある。そして早速この「チェンジメモリ」を使って「スペースマウス」を入力したのだった。
その後はゲームを入力する日々だった。今でも「ジ・エンド・オブ・エイジア」を聴くと、夏の暑い部屋でダンプリストと格闘している情景と、なぜか「THE GUARDIAN」のプレイ画面が脳裏に浮かぶ。
その後フロッピーディスクドライブを買った。純正のものは30万円もしていたので到底手の届かない代物だったが、工人舎の「KD-280」という互換品が出たのでそれを買った(I/O掲載の広告から推定して1982年の10月ごろだったようだ)。このときは貯金をはたいて自分で買ったらしい。
ここでまた、買っても1週間何もできずに腐った。どうやってもうまくいかず途方に暮れた。FORMATしてからでないと使えないということを理解するのに1週間費やした。都会に住んでいれば、マイコンショップに入り浸って、常連客に「オタク、○○知ってる?」と相談しただろうが、田舎にはそんな場所はなく、誰にも相談できなかった。
いつだったか、「PC-8001活用研究」というI/Oのバックナンバーを集めた本を買い、これがずいぶん勉強になった。掲載されていた「PC-8001全回路図集」は穴があくほど読んだ。キャラクタジェネレータ周りの回路はわかりやすい単純なものだったので、ここを理解したことから、PCGの改造ネタを思いつくに至った。
もうひとつむさぼり読んだのは、1981年11月号の「N-BASIC Consolidator」という記事。これで「hookする」という概念を学んだ。コマンドを増やせるということにもワクワクしたが、この記事は「N-BASICの予約語を再定義する方法」をアセンブルリストとともに説明していて、それを理解することが目標となった。しばらく理解することができなかったが、後に秀和システムトレーディング社の「PC-8001 BASIC SOURCE PROGRAM LISTINGS THE WHOLE ANALYSIS OF Ver.1.0 & 1.1」という本を買い、これと共に読むことでようやく理解した。1983年にはN-BASICに独自コマンドをいっぱい追加するプログラムを書いて楽しんだ。その一部が「EDIT for N-BASIC」で、1984年6月号に掲載された。この記事を書くことで、参考文献を示すことの大切さを学んだ。
秀和のこの本はべらぼうに高かったが、これがなかったらあんなことはできていなかったに違いない。上の右の写真は、バージョン表示用メッセージの文字列データの部分だが、「Copyright 1979(C) by Microsoft」の「Microsoft」の部分だけ16進表記のままであえて文字に変換していないところが趣深い。この本はMicrosoftから著作権侵害差止請求訴訟を起こされた事例として有名だ。今検索したところ、夏井先生のサイトに判決文が見つかった。
ところで、今回読み返していて気づいたのだが、I/O 1984年3月号の「BIOS」に興味深い記事が載っていた。「(仮称)プログラム権法 ―― 今争点となっているソフトウェアの法的保護。今月は、産業構造審議会による中間答申をレポートする」という内容。当時は関心がなくてスルーしていたが今になってみると興味深いという記事が「BIOS」にはけっこうある。
その他、CASIOの玩具キーボード「カシオトーン」を改造してPC-8001のプリンタポートにつなぎ、ADDCOMサウンドユニット用のソフトに演奏させるという遊びもやっていた。
こういう改造や拡張の楽しみは1986年ごろからもう味わえなくなっていった。ハードウェアはカスタムチップで実装されるようになって改造の余地がなくなり、ソフトウェアは大規模化して、泥臭い遊びより保守性の高い開発の手法に関心が移っていった。
思えばあのわずか3年半の間に、ものすごい勢いでいろいろなことに挑戦し、学んでいた。それに比べて今はどうだ。この3年で自分はいったい何をやったのか、と。
ちなみに、I/O投稿者の方々のその後は如何に?と、氏名でググってみたが、ほとんどの方は見つからなかった。「N-BASIC Consolidator」著者の上田智章氏のサイトは見つかった。今もトラ技などに執筆を続けていらっしゃるようだ。
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20080102.html#p01[out link]やべぇ。8001とか超ナツカシス。私の場合は、親からお下がりでもらったので使い方に関しては親父にならったので問題ナス。小学生の頃、周りの友達がファミコンを持っていて、俺にも買ってクレと言ったら、親..