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高木浩光@自宅の日記

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2003年10月08日

風邪ひいた

昨日の朝から風邪でダウン中。

ううう、原稿が……。(涙)

ごめんなさい

大事な原稿を1つ落とした。悔しい。もう1つ別の原稿を延期にして頂いた。関係者の方々には、たいへんご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。

先週末から机に向かってもどうしても文章が書けなかった。月曜は東浩紀さんとの対談。それまでは緊張で持ち堪えていたのだろうか、帰ってきて仮眠を取ったところ、起きたら喉が炎症を起こしていた。

東さんとの対談の件については、今の冴えない頭では書きたくないので、また後日。

Creative Commonsについて考えさせられた

延期になった原稿について、Creative Commonsライセンスで掲載したいということで、同意するかの選択を求められていた。これまで、Creative Commonsライセンスで著作物を発表したいと思ったことがなかったので、それがどういうものかきちんと理解してこなかった。とり急ぎ、どういうものか調べることとなった。

提案されたライセンスは、Attribution (BY:), No Derivative Works (=) のタイプ。つまり、著作者表示を求め、二次的著作物を禁止するもの。これは、単発の論考のような文章の取り扱いとしては、ごく常識的なもののように思える。

常識的なものであるならあえてライセンス表示をする意味は何なのだろう?と最初は疑問に思ったが、複製、頒布、展示、実演を明示的に認めるという意味があるということか。

Webで公開しているものについて、印刷して適当に使うのはまあどうぞという気分なのだが、著作権法的には、それはいちいち許可してあげないといけないことなのだろうか。その許可手続を省略するのがライセンス表示の意義であると。

しかし、「印刷してご利用ください」というのであれば、文化庁の「自由利用マーク」でもよいのではないか。「コピーOK」を選択すると、プリントアウト、コピー、無料配布を許可することになるらしい。しかし「送信」は含まれないらしいので、Webへの転載はダメということか。

それに対して、Creative CommonsのAttribution, No Derivative Worksを選択することは、転載も許可することになるということだろうか。

ん?もしかして違うのかな。二次的著作物禁止は、

許諾者は、他の人がその著作物に基づく二次的著作物ではなく、その著作物そのものを複製、頒布、展示、実演するのであればこれを許します。
とある。「そのもの」とはどこまでを言うのだろう?

基本的には、Webで公開した文章について、他のWebサイトへの転載をすることにはあまり意義がない。なぜなら、URLひとつでどこからでも原著作物にアクセスできるはずだからだ。(サイトが潰れたとき、サイト管理者である著者が死亡したときのために、転載を許可しておくという意義はありそうだが。)

ただし、文章を自分のサイトに載せるのではなく、他者の管理下にある作品の集合体のひとつとして掲載してもらう場合には事情が異なる。統一されたデザインで集合体のひとつとして掲載されることに価値があるのだから、より著名なサイトへの転載はあり難いこととなる。

しかし、その場合でも、転載の許可を求められれば快く許可するのであるから、ライセンス表示によって無制限に最初から許可しておく必要があるとは思えない。

もし、大量の転載要求が発生するなら、最初から明示的に許可しておくことには意義があるだろう。著作権管理団体を通さずに済む。しかし、単発の論考のような文章について、大量の転載要求が生ずるとは思えない。今までどおり、手作業で確認と許可の手続きをふめばよいように思える。

ただ、作品の集合体の一部として文章を提供する場合には、集合体管理者の手間(転載要求者と原著作者との連絡作業の手間)を軽減する意義が小さくないのかもしれない。しかし、その程度の必然性のために、無制限の転載を許可するというのもなんだか不安だ。

Creative Commonsライセンスには他にどんなタイプがあるのだろうか。Share Alikeというのがあるらしい。つまり、二次的著作物の同一条件許諾

許諾者は、自分の著作物について定めた許諾条件と同じ許諾条件の下であれば、他の人が二次的著作物を複製、頒布、展示、実演することを許します。
ということらしい。

しかし、文章の二次的著作物には、どんなものがあり得るのだろうか?引用は、元々、著作権法で認められているのだから、わざわざ許可するまでもない。ひとつには、吉野家コピペと呼ばれる現象が、文章における「二次的著作物の同一条件許諾」の状態だったかもしれないが、他にどんな事態があるだろうか。少なくとも、論考や論文といった文章について、Share Alikeというのは考えられない。

……。ここで思い出したのだが、もしかしてこれがそれに該当するのだろうか。私が4月に日経ネット時評に書いた文章から、10〜50文字程度の単位で何か所もの文が引用ではない形で他人の著作物中に埋め込まれて書かれていた。これは偶然で起きることの範囲を超えていた。

私はこのとき、「パクりましたねなどと言うつもりは毛頭ない」と述べたが、このときの「パクる」は、「他人の著作物を(参照せずに)真似て同じ内容の主張をすること」を意味しているつもりだった。その意味ではこれはパクりではなかった。他人の文章を一部使って異なる主張が展開されていた。これを何と表現したらよいのかわからなかったのだが、これが「Share Alike」で実現される世界なのだろうか。

こういう使われ方を明示的に拒否するために、No Derivative Worksを指定したCreative Commonsライセンスを掲げておくのは意義があることなのかもしれない。


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