ダウンロード、アップロード、匿名、顕名、そしてプライバシー。これらの間の関係はその時々の倫理あるいは法との力学によって形作られている。
振り返ってみれば、10年前、Winnyが誕生したのは、日本が他国に先駆けてアップロード(公衆送信可能化)を刑罰をもって厳しく規制したことによる必然的結果であったし、Winny独自の仕組み(地引きダウンロードによる無差別自動ダウンロード)がこうも躊躇なく普及したのは、欧米と異なり児童ポルノの単純所持が処罰されない日本法の条件下でこそ実現し得たもの*1であった。その結果として、流出したファイルが消せないという環境ができあがり、世界にも類を見ない数々の悲惨な被害が繰り返され、さらには国家的脅威*2すらもたらされることとなったのであった。
アップロードつまり情報を公開することは、表現行為であって、表現の自由がある反面、責任を伴うものであるから、顕名による表現が歓迎されたり匿名による表現が忌避されたりする。対して、ダウンロードつまり情報を見ることは、匿名でいられるのが普通であり、顕名であることが求められる理由はなかった。ダウンロードにプライバシーを求めるのは自然なことであり、それが否定される理由はなかった。
まさにNyzillaはそのような倫理の上に設計された。つまり、公衆送信している者は自分が公衆送信している事実を自覚して責任を持つべきであり、そこにプライバシーは否定されるのだとの考えに沿ったものであった。その一方、接続先ノードが何を検索しているのかという情報は(受信してしまうが)表示しないように設計されている。
日本は10年以上もの間このような倫理の上を歩んできた。そこへ寝耳に水の著作権法改正である。10月から一部のダウンロードが犯罪となるのだ。いかなるファイルもダウンロードが犯罪となることはなかったところ、この変更は大きい。このことがこれまでの倫理をどのように変更し、どのような秩序をもたらすであろうか。
ダウンロードの一部が法によって犯罪となれば、場合によってそこにはプライバシーは成立しないことになるのだろうか。つまり、ファイルを公開する行為だけでなくファイルを取得する行為までもが「責任を持つべきもの」となって、「人々が責任あるファイル取得をしているか」が監視対象となることが肯定され、そこにプライバシーは否定されてしまうのだろうか。
日本弁護士連合会は昨年12月、「違法ダウンロードに対する刑事罰の導入に関する意見書」を出しており、以下のように、「私的生活領域に対する刑事罰導入だ」として批判していた。
特に、私的生活領域における刑事罰導入は、人間の行動の自由に対する広汎かつ重大な制約を課すものであり、その導入は、特に慎重であらねばならない。
現在議論されている違法ダウンロードに対する刑事罰導入は、まさに、個人の私的生活領域におけるダウンロードに対して刑事罰を科そうとする議論であり、これを是認すれば、国家権力が私的領域に直接入り込む余地を与えることになるものである。
違法ダウンロードに対する刑事罰の導入に関する意見書, 日本弁護士連合会, 2011年12月15日
これに対し、「ダウンロードは私的領域ではない」とする反論が、推進派の業界団体から密かに議員に渡されていたようで、津田大介氏がその資料を以下で提供してくれていた。
違法ダウンロード刑罰化問題。推進派の業界団体が今必死で国会議員巡りしてて議員向けに配布してる資料を入手したのでうpしますね。かなり強い口調で議員を説得にかかってることが窺えます。その1→dropbox.com/s/15lv9w0tyrav… その2→dropbox.com/s/lnqiz8cjlldr…
— 津田大介さん (@tsuda) 6月 7, 2012
Q16: 「刑法の謙抑性」の原則からみても、私的領域における行為に対する刑事罰の導入には極めて慎重であるべきではないか?
⇒ 「違法ダウンロード」は、不特定多数の者に対して行われる違法な送信を、「インターネット」といういわば「公道」上で取得して行うものであって、特定かつ少数の者の間の送信を受信して行うものではありません。この行為は、盗品マーケットで盗品を取得することに比すべきものであって、それに対して刑事罰を科すことは、「国家権力が私的領域内に直接入り込む余地を与えるもの」には当たらないと考えます。違法ダウンロードが個人の自宅等で行われることに着目して「私的領域における行為」としているとすれば、インターネットオークションに出品されている盗品を、その事実を知りながら、かつ個人的に使用する目的で自宅のパソコンを通じて落札して取得する行為も、私的領域における行為となるでしょう。しかし、そのような行為は、刑法上の盗品等譲受罪として処罰されるのであり、そのことは「国家権力が私的領域内に直接入り込む余地を与えるもの」ではありません。「違法ダウンロード」についても同様です。
インターネットは「公道」だから公道で行われるものは私的領域の行為ではないのだそうな。
おいおい、インターネットはたしかに公共インフラではあるが、公道と言うべきものではない。誰に見られても文句が言えないという意味で「公道」というのであれば、それは、Webサイトなどの場のことであって、電気通信事業者の取扱中に係る通信のことではないはずだ。もし、「公道であるインターネットを通じて注文しているのだから私的領域の行為でない」などという理屈がまかり通るようになったら、DPI広告でも何でも勝手にやり放題ということになってしまう。
まあこの点については、この著者不詳の文書は「インターネット」=「ホームページ」(Webサイト)という感覚で書いたものなのだろう。Webサイトは「道」ではないが公の場であるのはその通りだ。
そこは読み替えてあげるとして、では、「公道であるWebサイトを通じて取得して行うものは私的領域の行為ではない」というのはどういうことか。
なるほど、つまりこういうことだ。
現在のところ、違法に配信されているYouTube動画を閲覧する行為(A)は違法ではないが、ストリーミングで提供されている動画を閲覧者側でファイルとして保存する行為(B)は「録画」に当り違法と言われている。これには異論もあるらしいが、ストリーミング動画を閲覧するだけなら著作権法の言う「録画」に当たらないという解釈だろうか。
そのとき、「公道」であるところのWebサイト上で何が起きているかは(A)も(B)も同じである点に注意したい。違いは、自宅パソコン上で「保存」をするかしないかの違いだけである。
日弁連の指摘は、自宅パソコン上で保存が行われるところを指して「国家権力が私的領域内に直接入り込む余地を与えるもの」と指摘したのだと思うが、著者不詳の文書はその点を意に介さず、公道を通じて行われるものは私的領域の行為ではないと否定した。
ということは、著者不詳文書の業界団体は、閲覧者側の保存行為の有無によらず(A)も(B)も犯罪とみなしているということではないか。
ネットオークションを通じた盗品譲受に「見るだけ」ということはあり得ないわけで、それにもかかわらずこの文書は、ダウンロードを盗品譲受と同一視し「同様です」としている。単にこの文書の著者が論理上間違えただけなのならいいが、本気でそのように考えているのなら、(A)も犯罪とみなしているということではないか。(そうでないのなら、閲覧者側で保存するかしないかはやはり私的領域であるはず。)
今後、見るだけであっても責任を問われるようになってしまうのだろうか。人民が「責任ある視聴」をしているか、監視の対象となってしまうのだろうか。
*1 2009年7月20日の日記参照。
*2 警視庁公安資料流出放流事件のこと。
 [ダウンロード犯罪化で秩序はどう変わるか]より気になった点を「10月から一部のダウンロードが犯罪となる」「「ダウンロードは私的領域ではない」とする反論が、推進派の業界団体から密かに議員に渡されていたようで」「インターネットはたしかに公共インフラで..