ある方の日記で「RFIDはその一端にすぎず、直視すべきは監視技術全般とその背後にあるものだ
」という反応があった。そうした考え方があるのは知っているのだが、あのネット時評では、努めてそうした考え方を排して書いた。追跡するのはあくまで迷惑業者と想定している。
なぜそうしたか。「監視社会がやってくる」といった主張では耳を傾けない人たちがいるからだ。たとえば、「ICカードで買い物をすると誰が何を買ったかの行動が監視される」と指摘したとする。それに対する事業者の反応は、「お客様を監視するつもりはありません」となる。それに対して「嘘だろ」と言っても始まらない。次に指摘するのは、「購買履歴を名簿業者に転売するのでは?」といったところか。これに対しても反応は、「お客様のプラバシーは大切に保護します」だろう。あとは、「そう言ったって漏れたりするんじゃないの?」となるが、これも「万全のセキュリティ対策をとっています」と言われるだけだ。「名寄せ」にいたっては、「誰がそんなことするの?被害妄想の甚だしい人がいるね」と言われて、「電波系サヨク市民運動家」のレッテルを貼られかねない。
これは、プライバシー問題を議論する対面した会合で私は実際に目の当たりにしてきた。この領域の権威とされている大学教授が、住民票番号による名寄せの可能性の議論で、「番号がなくたって氏名と住所で名寄せできるでしょ?今どきの情報処理技術を知らんのか?」と言っている(私に対して言ったのではなく櫻井某とかに対して)のを見た。人に番号を付けることそのものを嫌悪する人たちがいるが、これは電波系とみなす人が多いだろう。番号は既にいくらでも人に付いているのだから。住民票番号に問題がどこにあり得るかというと、それが全国民に必ず付いていることが保証されるために、様々な場面で(どうでもいい場面を含めて)番号の入力を求めるように「都市がデザイン」されていく点に尽きると私は考える。(念のため実例を挙げておく。去年のデジタルコアでのセキュリティの勉強会の席で、「インターネットで何度も繰り返し個人情報を入力させられるのは消費者として不便だからなんとかならないか」という質問があった。上の議事録には書かれていないが、私はこう答えた。「住民票番号を入れるようにすればいいですね」と。もちろん冗談なので、会場は笑いに包まれたが、無警戒な人たちの中にそういう要望は確実にあり、そういうデザインに雪崩れ込んでいく力が働いているのは確かだ。)
そのため、住民台帳法では住民票コードの民間利用が罰則付きで禁止された。この問題は正しく認識されていて解決済みだ。なのに、「番号がなくたって……」と論点のボケたことを言う専門家(とされる偉い人)がいるのだ。彼らは、「反対派」を電波系と決め付け、そこにある個々の論点を理解しようとせず、大雑把な議論に終始する。運動の動機がどうであれ、手法が電波系であれ、そこで展開されている個々の主張のうち正しいものは理解すべきだが、それをしようとしない人が日本には(と限定されるかどうか知らないが)あまりに多いというのが、私のこれまでの経験から感じている問題意識だ。
公開されている情報からそうした実例を挙げておく。 -RFIDのプライバシーの脅威は会員証と違わないという発言[slashdot.jp] -RFID研究者による、会員証やクレジットカードなどと変わりないという発言[slashdot.jp] -サブスクライバーIDを個人情報に結び付けるのはかなり困難だとする発言[slashdot.jp] -免許証番号だってあるしビデオ屋の顧客IDだってあるという発言[slashdot.jp]
この種の「問題があるとは思えない」という考えは、技術者ほど陥りがちという状況がある。非技術者は、「番号があると個人追跡される」と一般雑誌で騒がれれば、なんとなく信じてしまうかもしれないが、(素朴な)技術者は「そんなわけない」ということを考え始め、「問題あり」とする人は非技術者だからしかたないと考えるようになる。
RFIDの話に戻すと、去年、JIPDECの委員会でプライバシー問題の議論をしたときも、ユビキタス方面の専門家たちも、最初は、固有IDの問題をきちんと理解していなかった。cookieの問題やMicrosoftのSuper Cookies問題に照らし合わせて話すと理解してもらえ、プライバシー問題に対する態度が変化した。今年年頭のデジタルコアの議論でも、「気にするのは一部の人だけ」という発言があったし、トレーサビリティ研究会の席でも出てくるのは、属性情報を読まれる危険性の話ばかりで、私が言い出すまでは固有IDの問題は出てこない。そういう状況が現段階ですらある。
どうしてそういう状況なのか。「番号があると追跡される」と言えばわかっている人にはわかる。だが、それを電波系だと思っている技術者、専門家がいる。筋道を立てた説明を誰もしてこなかったからじゃないのか。主観的な要素を排除して論理だけで問題の原理を説明した文章が今まであったのか。私は、もうこれ以上同じ説明をその場その場で繰り返すのは避けたいと考え、あらためて固有IDの問題を文章にしたというのが、あのネット時評の記事だ。べつに新しいことを書いているつもりはなく、まだ問題を理解していない人への説明用のリファレンス文書として使ってもらえることを期待して書いたものだ。
「そんなのみんなわかってるさ」と言う人がいるかもしれないが、日経バイトの記事の件を見て、「暗号化で解決されたから大丈夫」と誤って安心した人がどれだけいることか。実例は日記にも見られる。私のネット時評を参照し、この「RFID反応リンク集」も参照して、ブックフェアに行ってきたという人が、「IDを識別できないように暗号化するという感じで」と早速、問題が解決されていると誤って理解している。それほどまでにこの問題の正しい理解は行き届きにくいようだ。私の力も及ばず無念だ。
「そんな細かいことはどうだっていい」と言う人がいるかもしれない。それよりも、治安のための監視技術の普及とプライバシーのバランスをどうとっていくかの議論の方が重要だと。もちろんそれは別途議論すればいいことだ。それは私のような職種の人の役割ではない。私の役割は、正しい事実を理解した上で議論することの必要性を示すこと(誤った理解が導いた危険な結果の実例を指摘すること)だ。
ちなみに中央公論はまだ読んでない。週明けにでも探して読むつもりだ。
WWWを知った9年前、個人的なことは書くまいと思ったのを覚えている。Web日記が流行し始めたときも、「自分は書かないぞ」と決意したものだ。言いたいことはメーリングリストに書くことで満足していたし、他の人が意見を述べればそれが同じ場で皆に見えるという、メーリングリストの性質が自分には合っていた。Web日記はそうではない。小さなコメント機能はあっても議論の場とはならないし、誰かの反感を買ってどこか知らないところであれこれ言われるのは不安だ。それに、「これは個人的な日記だから」と暗に反論を牽制する結果をもたらす仕組みになっているのも、自分には合わないと思っていたし、そうした牽制を必要とする話題を書く動機がなかった。
だが、状況は変わってきた。tDiaryなどのRefererを自動集計してくれる便利な日記システムや、検索能力の高いGoogleの登場で、特定の話題に関心を持った少数の人たちのコミュニティが形成されるようになってきた。メーリングリストは基本的に参加者の皆が求めていそうな話題しか書けない(書きにくい)システムなので、関心ある者が臨機応変に集まる必要のある話題には向かない。
もうひとつの状況変化は、自分の関心が移り変わってきたことだ。以前は純粋な技術論だけで満足だったのでメーリングリストでよかった。ここ3年は、セキュリティ脆弱性の話題を扱うようになって、公の場では書けない情報を握るようになり、書けない鬱憤が溜まるようになった。しかし、書いてはならないことは、「個人的な」Web日記であろうとも、いずれにせよ書くわけにはいかない。ところがここ9か月ほどはプライバシーの話題にも首を突っ込むようになってきた。セキュリティ脆弱性の話は論理だけで事がすむ。証拠を示して問題点を指摘すれば私の役割は完結する。ところが、プライバシーの話はそうはいかない。正直、そういう性質の話題には首を突っ込みたくなかったし、自分の役割でもないと思っていたのだが、結局首を突っ込んでしまった。
「今日からWeb日記を書くぞ」と決意したことはこれまでにも何度かあったが、いろいろ迷いがあって、その都度断念している。今回もいつまで続けるかわからない。すぐにやめてしまうかもしれない。