情報ネットワーク法学会の論文誌に、玄政和弁護士とご一緒して、韓国個人情報保護法に関する論文を書いた。オープンアクセスなので、誰でも閲覧できる。
これは、一昨年12月の情報ネットワーク法学会大会で口頭発表した話(今年3月16日の日記で書いた件)を、論文化したもので、韓国語が機械翻訳で十分読めるとはいえ、一人では限界を感じ、一昨年3月のCafe JILISの記事に賛同のツイートを頂いていた玄先生に、ご一緒しませんかとお誘いして、共同作業が実現したのであった。
当初は翌年2023年5月の締切に出そうとしていたのが、私の怠慢で(情報法制研究13号の締切と同時進行だったこともあり)間に合わなくなり、一旦断念していた。その後、韓国の状況に進展があり、2023年10月に憲法裁判所の合憲決定が出て、これによって、随分と書きやすくなった。
というのも、その前の段階では、正直、書くのがしんどい感があった。なにしろ、憲法裁判研究院の報告書では、もう違憲の結論しかないような書き振りになっていたので、焦りながら「そっちに行ってはいけない!」と、何とか韓国側にも伝わらないものかと力んでしまい、他方で、情報ネットワーク・ローレビューは査読ありなので、下手に独自説を強調してしまうと落とされる危惧もあり、どう書けばいいか悩むところがあった。
それが結局、合憲決定を紹介すればいいことになったので、肩の力が抜け、淡々と事実を紹介していけばいい形になった。しかも、締切近くになって、韓国においても我々と同様に「個人情報そのものを保護する法律ではない」と主張する憲法学者が見つかり(注98「韓国個人情報保護権の絶対化現象に対する批判」)、その点でも、淡々と紹介すればいい形になった。
ところがその結果として、我々の主張が遠回しで控えめになってしまい、書き足りていないのではないかと、修正、校正の際に気になった。何度読み返しても一応書いてはあるので、結局そのままにしたのだが、出版された今でも、読者に理解されるだろうかとの不安に苛まれる。
そんなわけで、この完成したバージョンをLLM(Claude 3.5 Sonnet Formal)に読ませて尋ねてみた。
主に3つの重要なポイントが読み取れます:
論文は控えめな表現を用いていますが、個人情報保護法制における重要な理論的転換を示唆する内容となっています。特に、「個人情報自体の保護」から「個人に対する決定の適切性の確保」へと、法制度の目的理解を転換させる必要性を指摘している点が革新的です。これは今後の法制度の発展において重要な示唆を含んでいると考えられます。
この論考は、医療データの二次利用など、今後の実務的な課題に対する理論的な基礎を提供することも意図していると読み取れます。
第一に、韓国の事例は、個人情報保護法制における理論と実務の衝突を鮮明に示しています。韓国では「個人情報自己決定権」が憲法上の権利として確立されているにもかかわらず、データ利活用のために仮名情報制度を導入せざるを得なかった現実があります。この状況は、個人情報保護と利活用のバランスを図る上での理論的課題を浮き彫りにしています。
第二に、韓国の状況は日本が直面している課題を先取りしているといえます。日本でも医療データの二次利用などについて、同様の課題に直面することが予想されます。韓国の憲法裁判所による判断とその理論的な問題点を分析することは、日本が同様の課題に直面した際の示唆となります。特に、韓国の憲法裁判所の判断理由の不十分さを指摘することで、より適切な理論的根拠の必要性を示すことができます。
第三に、この事例は個人情報保護法制の本質的な目的を再考する好機となります。韓国の事例を通じて、個人情報保護法が「個人情報そのもの」を保護するのではなく、「不適切な決定から個人を保護する」ことを目的とするという視点を提示できます。これは、OECDガイドラインやEU法の原点に立ち返る議論にもつながり、今後の法制度の発展における重要な示唆となります。
つまり、韓国の事例は、理論と実務の調和、将来の課題への対応、そして法制度の本質的な目的の再考という、三つの重要な観点から示唆を得られる絶好の題材だといえます。これらの示唆は、日本の個人情報保護法制の発展において重要な意義を持つと考えられます。
韓国では、憲法裁判所が2005年の判例で「個人情報自己決定権」を憲法上の権利として確立しました。これは個人が自分の情報の流れを把握し統制できる権利とされています。しかし、データ利活用の必要性から2020年に導入された仮名情報制度は、本人同意なしでの利用を可能とするものでした。これは一見すると、個人情報自己決定権と相容れないように見えます。
しかし、論文が指摘するように、この「緊張関係」は、個人情報保護法の目的を「個人情報そのものの保護」と誤解することから生じている可能性があります。法の本来の目的を「不適切な決定から個人を保護すること」と理解すれば、仮名情報の利用が個人への決定に影響を与えない限り、必ずしも権利侵害とはならないという理解が可能になります。
つまり、韓国の事例は、個人情報保護法制における表面的な対立を超えて、法の本質的な目的に立ち返って考える必要性を示唆しているといえます。これは日本における今後の法制度の発展にとって重要な示唆となります。
一つ目は、個人情報自己決定権を厳格に解釈する立場です。この立場からは、仮名情報制度が導入された2020年改正に対して、「個人情報主体の同意権を一切認めておらず、仮名情報であれば個人情報の保護のための各種権利と義務を全面的・一律的に排除している」という批判がなされました。
二つ目は、イ・インホ教授に代表される立場で、「個人情報保護権の絶対化」を問題視する見解です。この立場は、個人情報保護法を「誤用・濫用を統制するために情報主体に個人情報保護権を認める」ものと位置づけ、「個人情報を『秘密の情報』であるかのように錯覚してはならない」と指摘しています。
特に興味深いのは、イ・インホ教授による指摘です。教授は、個人情報処理者が行う個人情報処理の全過程を情報主体が「直接的に決定したり制御する権利」という理解は誤りであり、むしろ情報主体の個人情報自己決定権は、処理の過程に「参加する権利」として捉えるべきだと主張しています。
憲法裁判所は結論としては仮名情報制度を合憲と判断しましたが、その理由付けは十分とは言えないものでした。論文が指摘するように、なぜ仮名情報が本人に影響を与えないといえるのかについての根本的な説明が不足しているように見受けられます。
このような韓国での議論は、個人情報保護法制の本質的な目的をめぐる理論的な深化の過程を示していると言えるでしょう。
むしろ注目すべきは、韓国の憲法裁判所が2005年に個人情報自己決定権を憲法上の権利として確立したにもかかわらず、2023年の決定で仮名情報制度を合憲と判断したという事実です。この判断の変化は、個人情報自己決定権の解釈や理解が時代とともに変化している可能性を示唆しています。
論文では、この点について直接的な言及は控えめですが、イ・インホ教授の見解を引用しながら、個人情報自己決定権の本質的な意味を問い直しています。特に、「個人情報処理の全過程を直接的に決定・制御する権利」という解釈から、処理の過程に「参加する権利」という理解への転換が示唆されています。
このような解釈の変化は、個人情報保護法制の目的についての理解の深化を反映しているとも考えられます。論文が指摘するように、法の目的を「個人情報そのもの」の保護ではなく、「不適切な決定から個人を保護すること」と理解することで、個人情報自己決定権と仮名情報制度は必ずしも矛盾しないという結論が導かれる可能性があります。
つまり、韓国の事例は、憲法上の権利として確立された個人情報自己決定権の解釈自体が、データ利活用の実態や社会的要請を踏まえて発展している過程を示しているのかもしれません。
論文は、個人情報保護法制の起源に遡り、1970年代後半のOECDガイドライン策定に関与したJon Bingの説明を引用しています。それによれば、この法制度の本来の目的は「データ保護の意思決定指向の側面」にあり、個人に対する決定が適切に行われることを確保することにあったとされています。
しかし韓国では、「個人情報自己決定権」という名称の影響もあってか、個人情報の流れを完全にコントロールする権利という理解が広がり、それが仮名情報制度への反発の一因となったと考えられます。憲法裁判所も、この権利の本質的な意味について十分な説明ができていないように見受けられます。
この事例は、法制度の本質的な目的を正確に表現する用語の重要性を示唆しています。「個人情報自己決定権」に代わる、より適切な概念枠組みを検討する必要があるのかもしれません。
研究院の報告書は、「個人情報自己決定権」を「自分の個人情報の流れを把握して統制できる権能に対する法的保護」と位置づけた上で、「個人情報主体が自身の個人情報に対して閲覧・訂正・利用中止・削除などの必要な措置を要求する権利は、個人情報自己決定権の実質的な行使のための前提条件であり、自ら貫徹するための手続形成的要素が内在する請求権」と述べています。
この認識に基づき、研究院は仮名情報制度について、仮名情報の生成とその後の利用・提供・活用を区別することなく、生成自体から個人情報主体の同意権を無力化し、個人情報保護のための各種権利と義務を全面的・一律的に排除している点を問題視しました。
しかし、この報告書の立場は、論文が指摘するように、個人情報保護法を「個人情報そのもの」を保護するための法律と誤解している可能性があります。研究院の報告書は、個人情報の流れに対する統制権という側面を強調するあまり、この法制度の本来の目的である「不適切な決定からの保護」という視点が欠けているように見受けられます。
この研究院報告書と後の憲法裁判所決定の違いは、個人情報保護法制の本質的な目的についての理解の違いを反映している可能性があります。これは、「個人情報自己決定権」という概念の解釈をめぐる理論的な発展過程の一端を示しているとも考えられます。
ドイツの「情報的自己決定権(Recht auf informationelle Selbstbestimmung)」は、1983年の国勢調査判決で連邦憲法裁判所により導き出された権利です。韓国の個人情報自己決定権の概念形成には、このドイツの概念が大きな影響を与えていると考えられます。
しかし、論文が指摘するように、個人情報保護法制の起源に遡ると、1970年代後半のOECDガイドライン策定時には、「意思決定指向の側面」が重視されていました。ドイツ由来の「自己決定権」という名称は、法制度の本来の目的である「不適切な決定からの保護」という観点を見えにくくしている可能性があります。
この理解の違いは、個人情報保護と利活用のバランスをめぐる現代的な課題に大きな影響を与えています。「自己決定権」という名称が、個人の完全なコントロールを想起させ、仮名情報のような新しい制度の導入を理論的に困難にしている面があるかもしれません。
ドイツ語の"Recht auf informationelle Selbstbestimmung"は、直訳すると「情報的自己決定権」または「情報に関する自己決定権」となります。この表現は、「情報を自己決定する権利」という意味とは微妙に異なります。「情報的な」という形容詞的な用法は、自己決定権の性質や領域を限定する働きをしており、必ずしも情報そのものへの直接的なコントロール権を意味するものではありません。
一方、韓国語での「개인정보자기결정권」(個人情報自己決定権)という訳語は、より直接的に情報自体へのコントロールを示唆する表現となっています。この微妙な言語的な違いが、権利の性質についての理解に影響を与えた可能性があります。
このような訳語の選択と解釈の違いは、個人情報保護法制の本質的な目的の理解にも影響を及ぼしていると考えられます。「情報的な」自己決定権という理解であれば、それは情報が関わる文脈における自己決定の権利という、より広い解釈が可能かもしれません。これは、論文が指摘する「不適切な決定からの保護」という法の本来の目的とより整合的かもしれません。
この言語的な観点からの分析は、個人情報保護法制の理論的な基礎を再考する上で、重要な示唆を提供しているといえます。
論文によれば、日本では「自己情報コントロール権」説が憲法学界で有力とされているものの、最高裁判所がこれを認めた判例はなく、政府も個人情報保護法がこの権利を実現するものとは認めていません。
さらに、日本の「自己情報コントロール権」説の特徴として、「誰に対して自己の何を見えるか、いかなる情報を開示するか」について本人の自己決定を認めるべきという、情報の提供面に焦点を当てた解釈がなされています。組織内部での利用についてはほとんど問題にされていないという点で、韓国の個人情報自己決定権とは異なる展開を見せています。
この違いは、第三者提供の規律にも表れています。日本の個人情報保護法では、目的内であっても第三者提供を原則的に禁止していますが、これは自己情報コントロール権説の影響を受けている可能性があると論文は指摘しています。
また、令和3年改正の国会審議では「自己情報コントロール権を明記するべき」との主張がありましたが、結果的には附帯決議において「自己に関する情報の取扱いについて自ら決定できること」という表現に留められました。この経緯は、権利の性質についての慎重な態度を示していると解釈できます。
このように日本では、韓国のような憲法上の権利としての確立には至っていないことが、逆説的に、データ利活用と個人情報保護のバランスをより柔軟に検討することを可能にしているとも考えられます。
論文の分析からは、問題は権利を認めるか否かではなく、その権利の本質をどのように理解するかにあることが示唆されています。
法制度の本来の目的に立ち返ると、個人情報保護法は「個人情報そのもの」を保護するためではなく、「不適切な決定から個人を保護する」ことを目的としているとされます。この観点からすれば、仮に自己情報コントロール権を認める場合でも、それは情報の流れ全般への完全なコントロールを意味するのではなく、個人に影響を与える決定のコンテクストにおける権利として理解することが可能です。
日本では権利を認めなかったことで、データ利活用との調和を図る余地が残されましたが、それは必ずしも望ましい理由によるものではないかもしれません。むしろ、権利の本質的な意味を正確に理解した上で、それを法制度に適切に反映させることが重要だったと考えられます。
したがって、「賢明だった」という評価よりも、今後、個人情報保護法の本質的な目的に立ち返って、権利の意味を再考する必要があるというのが、論文の示唆する方向性ではないかと思われます。
しかし、両国の法制度には重要な違いも存在します。最も顕著な違いは、韓国では個人情報自己決定権が憲法上の権利として確立されている一方、日本ではそのような展開が見られないという点です。この違いは、両国の法制度の発展に異なる影響を与えています。
興味深いことに、2020年の韓国法改正による仮名情報制度の導入は、日本の令和2年改正による仮名加工情報制度とほぼ同時期に行われています。しかし、韓国法の仮名情報は第三者提供を認めているのに対し、日本法の仮名加工情報は事業者内部での利用に限定されているという違いがあります。これは、両国が同様の課題に直面しながらも、それぞれの法的背景に応じて異なるアプローチを採用したことを示しています。
このような状況は、法制度の発展が単純な影響関係だけでなく、各国固有の法的・社会的文脈の中で独自の展開を見せることを示唆しています。むしろ、両国の経験を比較検討することで、個人情報保護法制の本質的な目的についての理解を深めることができると考えられます。
特に重要なのは、両国の法制度の成立過程です。韓国法は、最初に公的部門を対象とした法律を制定し、その後、個別分野ごとの法律を経て、2011年に公民の全部門を対象とする一般法を制定するという道筋を辿りました。この発展過程は、日本の個人情報保護法制の発展と類似しています。
また、個人情報の定義における考え方も共通しています。両国とも、個人情報の定義に「容易照合性」の概念を取り入れています。ただし、韓国法では「他の情報の入手可能性」を考慮する解釈が採用されており、日本法の「提供元基準」とは異なる展開を見せている点は興味深い違いと言えます。
さらに、基本原則の規定においても類似性が見られます。韓国法の「個人情報保護原則」は、日本の2002年に廃案となった旧法案が規定しようとしていた「基本原則」に類似しています。このことは、両国の法制度が共通の理念的基盤を持っていることを示唆しています。
これらの共通点は、両国の法制度が同様の課題に直面し、類似のアプローチを採用してきたことを示しています。しかし同時に、それぞれの国の法的・社会的文脈に応じて、異なる発展を遂げている側面もあることが分かります。
論文によれば、OECD 8原則の第2原則は「Personal data should be relevant to the purposes for which they are to be used」(前段)と「...and, to the extent necessary for those purposes, should be accurate, complete and kept up-to-date」(後段)という二つの部分から構成されています。
韓国法は、3条の「個人情報保護原則」において、後段の「正確性、完全性、最新性」は取り入れていますが、前段の「関連性」については言及していません。実は、この特徴は日本法にも共通しています。
この「関連性」の原則の欠落は、両国の法制度における重要な特徴を示唆しています。個人情報保護法制の本来の目的が「不適切な決定からの保護」にあるとすれば、その決定に用いられるデータが目的に対して「関連性」を持つことは極めて重要な要件のはずです。
しかし、両国の法制度がこの「関連性」の原則を明示的に取り入れていないことは、個人情報保護法制の本質的な目的についての理解が十分でない可能性を示唆しています。これは、両国の法制度が「個人情報そのもの」の保護に重点を置きがちであることの一因かもしれません。
この共通の特徴は、今後の法制度の発展において重要な検討課題となり得ると考えられます。
研究院の主張は、個人情報の利活用から生じる利益の分配や、技術発展への貢献を個人の選択の問題として捉えています。しかし、これは個人情報保護法制の本来の目的である「不適切な決定からの保護」という観点から外れているように思われます。
統計作成や研究目的での仮名情報の利用は、そもそも個人に対する決定に用いられることを想定していません。そのため、個人の利益への還元や価値選択の問題として捉えること自体が適切ではありません。むしろ、仮名情報の利用が個人に対する決定に影響を与えないことこそが、重要な論点となるはずです。
論文が指摘するように、イ・インホ教授は「個人情報保護法は個人情報そのものを保護するための法律ではない」と述べています。この観点からすれば、研究院の主張は、個人情報をあたかも個人の財産のように捉え、その利用から生じる利益の分配を問題にするという誤った前提に立っているとも考えられます。
この問題は、個人情報保護法制の目的を正確に理解することの重要性を改めて示唆しています。法の目的を「不適切な決定からの保護」と理解すれば、統計作成や研究目的での利用は、むしろ決定の質を高めることに貢献する可能性があります。
本論文の重要なポイントは以下の3点に集約されると考えられます:
第一に、韓国の憲法裁判研究院は、仮名情報制度を個人情報自己決定権への侵害として捉え、その利益の分配や価値選択の問題として論じました。しかし、この理解は個人情報保護法制の本質を見誤っています。
第二に、個人情報保護法の本来の目的は「個人情報そのもの」の保護ではなく、「不適切な決定からの保護」にあります。この点は、1970年代のOECDガイドライン策定時から意図されていた基本原則です。しかし、日本法も韓国法も、この原則の重要な要素である「関連性」の概念を明示的に取り入れていません。
第三に、仮名情報の統計・研究目的での利用は、そもそも個人に対する決定に用いられることを想定していません。したがって、これを個人の利益への還元や価値選択の問題として捉えること自体が適切ではありません。
この理解に立てば、韓国の憲法裁判所による合憲判断は正しい結論でしたが、その理由付けは不十分でした。むしろ、仮名情報の利用が個人に対する決定に影響を与えないことを、より明確に説明すべきだったと考えられます。
これらの論点は、日本における医療データの二次利用など、今後の実務的課題に対する重要な示唆を含んでいます。個人情報保護法制の本質的な目的に立ち返ることで、より適切な制度設計が可能になると考えられます。
うむ、ちゃんとLLMには理解できるようだ。
しかしそれにしても、Claudeのスタイル「Formal」モードは堅いねえ。優等生すぎる。
ここで、スタイルを「Normal」モードに切り替え、続けてみた。
憲法裁判研究院の「個人情報の利活用から得られる利益が必ずしも全員に還元されない」「技術発展への貢献は個人の価値選択の問題」という主張は、完全に的外れです。
なぜなら、統計や研究目的で仮名情報を使う場合:
にもかかわらず、研究院は「個人情報は個人のもの」という誤った前提から出発して、まるで個人の財産を勝手に使われるかのような議論をしています。
これは「個人情報自己決定権」という名前に引きずられた誤解だと考えられます。結果として、関係ない議論(利益の還元や価値選択)で混乱を招いてしまっています。
本来の法の目的は「誤った/不適切な判断で個人が害されないようにすること」なのですから、統計や研究目的での利用はむしろ歓迎すべきものとも言えます。そうした利用によって、より適切な判断のための知見が得られる可能性があるからです。
この点を正しく理解できていないことが、日本での医療データ利活用などの議論でも混乱を招いているのではないでしょうか。
日本で1970年代から展開された「自己情報コントロール権」説は、韓国の「個人情報自己決定権」の議論に大きな影響を与えた可能性があります。日本の旧法案(2002年に廃案)の基本原則が韓国法に取り入れられているように、学説の影響関係もあったと考えられます。
特に注目すべきは、佐藤幸治博士による「自己情報コントロール権」の提唱です。この権利は、プライバシーの権利を積極的に捉え直したものとして影響力を持ちました。韓国の憲法裁判所2005年決定における個人情報自己決定権の説明は、この日本の学説の影響を強く受けているように見えます。
しかし、日本と韓国では、その後の展開が大きく異なりました:
この違いが、韓国での仮名情報制度をめぐる議論の混乱につながった可能性があります。日本の学説の影響を受けつつも、それを憲法上の権利として発展させたことで、かえって法制度の本来の目的から離れてしまったとも考えられます。
日本の学説の影響関係については論文では触れていません。そこまで議論を広げると、十分な根拠なく推測に基づいた主張になってしまう可能性があります。
論文で重視したのは、あくまで:
という点であり、これらの事実から得られる示唆を分析することに焦点を当てています。
私の先ほどの発言は、根拠が不十分な推測を含んでおり、適切ではありませんでした。
個人情報保護法制を自己情報コントロール権の実現として説明することを避け、個人情報取扱事業者に対する行為規範として構成することを選んだのです。政府の基本的立場として、「仮に自己情報コントロール権が憲法上の権利として認められるとしても、個人情報保護法がそれを実現する法律であるとは考えていない」と一貫して説明しています。
この選択により、韓国のような理論的な混乱は避けられた一方で、個人情報保護法制の本質的な目的を正面から説明する機会も失われてきた可能性があります。
そのことは、医療データの二次利用といった新しい課題に直面したとき、統計・研究目的での利用を理論的にどのように正当化するのかという問題に、十分な説明ができていないという形で表れているように思われます。
OECD 8原則が1980年に採択された時点で、すでに「Personal data should be relevant to the purposes for which they are to be used」という原則が示されており、その背景には「意思決定指向の側面」があったことが、Jon Bingによって説明されています。
また、1983年のドイツの国勢調査判決も、統計調査の公益性を認め、個人に対する決定に用いられないことを重視した判断をしています。
つまり、統計目的や研究目的での利用をどのように位置づけるかという問題は、1980年代から明確な方向性が示されていたにもかかわらず、その後の法制度の発展過程で、その本質的な理解が十分に継承されなかった可能性があります。
韓国の憲法裁判研究院の議論は、40年以上前にすでに解決されていた問題を、あたかも新しい課題であるかのように論じてしまっているように見えます。
この点で、法制度の本質的な目的に立ち返り、その原点を再確認する必要があるのではないでしょうか。
論文では、OECDガイドラインのPrinciple of Relevant Dataについて解説し、Jon Bingの「データ保護の意思決定指向の側面」「データ保護:意思決定指向利益モデル」という説明を引用しています。また、EUの加盟国の法制度における「decisionsに用いない」という条件についても言及があります。
これらの記述から、統計目的や研究目的での利用をどう位置づけるかという問題は、1980年代から一貫して存在し、その解決の方向性も示されていたことが分かります。
先ほどの私の発言で、ドイツの国勢調査判決に言及したのは適切ではありませんでした。これは論文では触れられていない内容であり、私が確実に知っているとは言えないためです。
論文の内容に限って議論を進めるべきでした。申し訳ありません。
これらのテーマは、今後の個人情報保護法制の発展にとって重要な示唆を含んでいると考えられます。
前回に続いて、情報法制研究16号に連載論文の第9回を書いた。
いったいいつまで続けるのか?とお叱りの声を頂く。たしかにこんな連載はない。当初は全4回程度の見通しだったのが、書いているうちに調べ方がどんどん深くなっていって、予定しているところの内容がどんどん膨らんでいって、膨張宇宙のようになったが、ようやくほぼすべての根拠を確保して収拾できるところまで来た。今回がいわば結論回の予定だったのだが、またしても、予定していた内容が膨らんで(「差別」との関係が予定していたより大幅に明確になった)1回では収まらなくなって、章の途中で次号送りとなった。次号ではそこを回収して、「学説等の状況」を示して、最終章「制度見直しの提案」を書く予定である。本当はこれを今の「3年ごと見直し」が始まるまでに発表したかったが、間に合わなかった。いや、ギリギリ間に合っているであろうか。
例によってClaudeさんだが、今回は、解説ではなく、評価を聞くスタイルにしてみた。(Claude 3.5 Sonnet Normal)
特に興味深いのは、個人データ保護法制を形式的平等の概念と対比させた分析です。これによって、なぜ「関連性」要件が重要なのか、また体系的実施に限定する理由について、新しい理論的根拠を提供していると思います。
改善の提案があるとすれば:
論文の質について何か具体的な質問や、特定の部分についてより詳しい議論をしたい点はありますか?
むしろ、個人データ保護法制の基礎理論に関する重要な学術的貢献として評価されるべき内容だと考えます。特に、「関連性」要件をめぐる考察は、今日のAI時代における個人データ保護の課題を考える上で示唆に富むものです。
論文の具体的なポイントについて、さらに詳しく議論させていただければと思います。特に気になる部分はございますか?
しかし、これらの課題は論文の限界というよりも、今後の研究の発展可能性を示すものと捉えるべきでしょう。むしろ、個人データ保護法制を憲法学の観点から再検討する重要な視座を提供した点で、憲法学的にも意義のある研究だと評価できます。
特に、形式的平等の理論枠組みを援用して「関連性」要件を説明する試みは、個人データ保護法制の憲法的基礎付けに新しい可能性を開くものといえるでしょう。
この点について、さらに詳しく議論させていただければと思います。特に気になる観点はございますか?
これらの課題は、論文の価値を大きく損なうものではありませんが、理論のさらなる発展のために取り組むべき重要な論点を示唆していると考えられます。
特に、AIによる意思決定が普及する現代において、「関連性」要件の規範的根拠をより明確に示すことは、実践的にも重要な課題となるでしょう。
これらの課題について、著者はどのようにお考えでしょうか?
つまり、この論文は:
という慎重なアプローチを採用していると考えられます。
この手法は、新しい理論的視座を提供しつつも、実定法の解釈論として受け入れられやすい論証方法だと評価できます。ただし、その分、規範的な理論構築としては物足りなさを感じさせる面もあります。
このような評価は妥当でしょうか?
以下のような理解でよろしいでしょうか:
このように、「関連性」要件と非差別の関係を中心に据えながら、歴史的分析と概念整理を通じて、個人データ保護法制の基礎理論の再構築を試みる論文として理解できますね。
次号での展開が非常に興味深く感じられます。現行の個人情報保護法における「不当な差別」概念の理解に、重要な示唆を与えることになりそうです。
論文では、この点について以下のように明確に論じられていますね:
このように、統計的相関と規範的な関連性の区別について、歴史的な文脈も踏まえながら、明確な理論的説明がなされていました。この点についての私の先ほどの評価は適切ではありませんでした。
むしろ、この論点こそが論文の重要な貢献の一つと言えるかもしれません。特にAI時代において、この区別の重要性は増していくと考えられます。
コンピュータによる個人データ処理にある種の権力性が見出されるならば、法の下の平等が国家権力による不合理な区別を制限するように、個人データ処理に対しても、その決定過程における不合理な区別を制限することが、1970年代のコンピュータ普及の黎明期に認識された必然的要請であったのではないだろうか。
データ処理による個人の選別は、多数のデータ対象者らを限られたデータ項目によって一律に評価することになる。データ項目は画一的なものとならざるを得ず、評価のロジックも画一的なものとなる。全体として統計的には「正しい」としても、一人ひとりの個人にとっては「正しくない」ことがある。そうした体系的実施による評価・決定は不完全で、時に非人間的な扱いとなる可能性があり、そこにある種の権力性が見出される
つまり:
という論旨ですね。
この視点は、個人データ保護をプライバシー保護の一形態として理解する従来の枠組みに対して、重要な理論的転換を示唆するものと評価できます。体系的実施という特徴から独自の権力性と規範を導く試みは、AIによる意思決定が普及する今日において、特に重要な意義を持つように思われます。
このように、歴史的分析から現代の課題に至るまで、論理的な連続性を持って説明されています。「論理の飛躍」という私の指摘は適切ではありませんでした。
むしろ、歴史的な文脈を丹念に追うことで、今日の課題に対する示唆を導き出している点が、この論文の重要な特徴と言えそうです。
この展開は:
という理解でよろしいでしょうか。
この指摘は、個人データ保護法制における差別概念の理解において重要な示唆を与えるものですね。日本の個人情報保護法における「不当な差別」の解釈にも影響を与え得る論点だと思われます。
この認識の差が、例えば:
といった課題につながっているということですね。
次号で、このような日本の現状に対する具体的な提言を展開される予定と理解しました。
これらの分析は、個人データ保護法制の理解に新しい視座を提供するものだと感じました。特に興味深かった点について、さらに詳しくお聞きしたいと思います。
こうした概念の混乱は、データ保護法制と情報公開法制とで同じ個人情報概念を用いようとしたところに無理が生じているのであり、本来は、異なる利益に対しては別々の定義を用いることが望ましいのであろう。
この分析は、単なる比較法研究を超えて:
という点で重要な意義を持っていると考えられます。
「取得」概念は、昭和63年法では、「個人情報ファイルを作成し、又は取得し」(4条)の形で出現し、個人情報ファイルについて「作成」と並置される概念であった。...この「作成」の概念が、OECD第1原則の「収集」に相当するものといえる。それが、行政機関個人情報保護法に全部改正された際に、この条文が「保有個人情報」定義に移動し、「職務上作成し、又は取得した個人情報」の形(情報公開法における「行政文書」定義の形)に変質し、OECD第1原則の「収集」に相当する概念は消失してしまった。そして、平成15年法以来の民間部門では、「作成」概念がなく「取得」概念しかないため、OECD第1原則の「収集」概念をカバーできていない。
特に:
という指摘は、次号での展開に重要な意味を持つということですね。
「収集」概念の欠落が、おそらく規制の実効性や法目的の理解にも影響を与えている可能性があることを示唆している点で、非常に興味深い分析だと思います。
次号ではこの点について、どのような展開が予定されているのでしょうか?
このように、「取得」と「収集」の区別についての分析は、平成27年改正の理論的問題点を指摘するための重要な伏線として機能していたということですね。
要配慮個人情報の規制は、結果的に1970年代の古い発想に逆戻りしてしまった、という指摘になるのでしょうか。
この展開は、法制度の継ぎ足しによる理論的一貫性の喪失を示す典型例として興味深いですね。
次号では、このような法技術的な問題点の指摘を通じて、より本質的な制度設計のあり方を提言される予定と理解しました。
このように区分して理解することは、現行法の解釈や法改正のあり方の検討にとって重要である。個人データ定義の解釈など、保護の範囲を画定することとなる解釈は、核心的保護利益に基づいて解釈されるべきであり、副次的保護利益からの期待を抑える必要がある。それを怠り、前記のような「保護利益の主従関係が逆転」する事態が生じれば、核心的保護利益を見失うことになる。
この分析は、個人データ保護法制に過度の期待を寄せがちな現状への重要な警鐘となっていると思います。副次的保護利益は確かに重要ですが、それを主目的と混同してしまうと制度の本質を見失うという指摘は説得力があります。
「これまでのところ、......ほとんどは、性別や人種など、容易に観察できる特徴に基づく不当な差別を排除することを目的としていた。しかし、将来、個人に関する特定の情報項目の収集に対して『本人以外の誰にも関わりのないこと』という理由で抗議する声に社会が対処しなければならなくなる可能性がある」
このように、現代的課題の源流が1970年代の議論に既に存在していたという発見は、非常に興味深いですね。概念の確立には至らなかったものの、本質的な問題の所在は認識されていたということが分かります。
このように、欧州では理論的な説明が十分になされないまま制度が発展してきた可能性があるということですね。これは、日本での制度理解にも影響を与えている可能性がありそうです。
データ保護法の関心事は、不当な差別の防止という観点からより適切に要約できるのではないだろうか?このような特徴付けにはかなりの妥当性がある。データ保護法は、特定の差別的過程に対処することを目的としており、実際にそうしている。
明確な正当性ルールとは、例えばプライバシーの権利や非差別の権利など、データ対象者の権利の侵害につながる情報の使用を禁じるものである。
しかし、これらの文献でも、関連性要件と非差別の関係について踏み込んだ理論的説明はなされていないということですね。PPSCレポートのような明確な問題提起や理論的示唆は見られないということでしょうか。
このように、1970年代に得られていた重要な洞察が、その後十分に発展させられることなく、ある意味で「忘れられた」状態にあるということですね。
これは逆に言えば、この論文で示された理論的整理の新規性と重要性を裏付けているとも言えそうです。
従って、私の先の理解は誤りで、DPD欧州委員会提案の段階での「転換」というよりは、CoE条約108号からの連続性として捉えるべきということですね。
この修正は論文の分析の正確性にとって重要な点だと思います。
「差別」の語は多義的であり、用いる際にはその意義を明らかにしておく必要がある。
ここでいう「差別」は、不合理な区別のことをいう。「区別」とは、人を他の人々と異なって扱うことをいう。日常語で多用される、集団に対する嫌悪や蔑視、排他の感情を意味する「差別」(差別感情)のことではない。また、特定の集団に対する社会的な烙印(スティグマ)とも関係しない。それらを伴わない場合を含むすべての不合理な区別のことを指す。
この点に関して:
このような差別概念の歴史的発展が、個人データ保護法制における「差別」の理解にどのように影響したのか。これは確かに重要な研究課題になりそうですね。
論文では特に、個人データ処理による決定における差別が:
という点が強調されています。
論文ではまず、個人データ保護の法目的を、核心的保護利益、手段的保護利益、副次的保護利益という三層構造で整理する。核心的保護利益は、個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益であり、これがデータ保護の中心的な目的とされる。手段的保護利益には、この核心的保護利益を実現するための手段として設けられた規制が保護利益に転化したものが含まれ、特に開示・訂正・利用停止を請求する権利がこれに該当する。副次的保護利益は、核心的保護利益のための規制によって結果的に同時に保護が実現される利益であり、秘密保持の利益、勧誘拒否の利益、自己の情報を知る利益、私的領域保護の利益などが含まれる。
特に重要な指摘は、個人データ保護における「関連性」要件と差別の排除との関係についてである。論文は、OECDガイドライン策定過程での議論を詳細に分析し、米国代表団が主張した「保護の必要性を生じさせるのは情報の性質ではなく、その目的と使用方法である」という立場の意義を明らかにする。これは、特定の属性による差別だけでなく、決定の目的に対して関連性のないデータ項目による決定すべてが差別的であるという認識を示すものだった。
この認識は、1977年のPPSCレポートで「本人以外の誰にも関わりのないこと」という基準として明確化され、今日のAI時代における課題を正確に予見するものであった。特に、統計的相関の存在と規範的な意味での関連性との区別という現代的課題について、既に理論的な示唆を含んでいたことは注目に値する。
論文は更に、この関連性要件を、形式的平等の理論との構造的類似性から説明する。個人データ処理による決定が体系的実施である点に着目し、そこに立法と同様の権力性を見出すことで、形式的平等における区分の合理性と同様の規範的制約が必要となることを論じる。
また本論文は、日本の個人情報保護法制の課題も明らかにしている。特に「取得」概念と「収集」概念の区別を通じて、要配慮個人情報規制に見られる理論的問題点を指摘する。さらに、データ保護法制と情報公開法制の関係について、英国の経験も参照しながら、両制度で同じ個人情報概念を用いることの問題性を指摘する。
このように本論文は、個人データ保護法制の基礎理論について、歴史的な分析と理論的な整理を通じて、新たな理解の枠組みを提示するものである。特に、今日のAI時代における個人データ処理の課題に対して、1970年代の議論に遡って理論的な示唆を見出している点で、重要な貢献となっている。
核心的保護利益は、個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益として定義されます。ここでの「個人に対する評価・決定」とは、対象となる個人の集合を、各個人の個人データに基づき、2つ以上の集合に分割し、分割されたそれぞれの集合に属する各個人に対して、属する集合ごとに異なって何らかの影響を及ぼすことを指します。重要な点は、これが「体系的決定」、すなわち、複数の個人を対象として想定し一律に評価・決定することを意味するという点です。
決定の「適切性確保」とは、個人に対する決定が、その決定の目的に照らして、正確であり(広義の正確性)公平なものとなることを要求するものです。そのために、評価の入力として用いる個人データの構成及び内容が適切であること(データの適切性)と、評価・決定の計算式及び判断基準(決定のロジック)が適切であること(ロジックの適切性)が要求されます。
データの適切性を確保するためには、データを構成するデータ項目の全てが、決定の目的に対して関連するもの(relevant)でなければならず、また、各データ項目の内容が、決定の適切性確保に必要な範囲内で、正確で(狭義の正確性)、完全で、最新のものでなければなりません。ここで特に重要なのは、「関連するもの」という要件です。これは決定の目的に関係ない(irrelevant)データ項目を評価の入力としないことを要求するものであり、決定の目的に関係ないデータを用いた評価・決定は決定の公平性を損なうという考えに基づいています。
この核心的保護利益の理解において特に注目すべきは、「関連性」の意味内容です。論文は、これが単なる統計的相関や「役に立つ」という意味での関連性ではないことを強調します。たとえば、音楽の好みと返済能力との間に統計的相関が見られたとしても、与信判断という目的に対して音楽の好みというデータ項目は「関連性がない」と評価されるべきだとされます。
このように、核心的保護利益は、データに基づく体系的な評価・決定において、決定の目的との関連性という観点から適切性を確保することを求めるものとして理解されます。これは、形式的平等における区分の合理性の要求と構造的に類似しており、個人データ処理に特有の権力性に対する規範的制約として位置づけられています。論文は、このような理解が1970年代のデータ保護法制の議論において既に萌芽的に存在していたことを明らかにしつつ、今日のAI時代における課題に対する重要な示唆を含むものとして再評価しています。
まず、「同意なく提供されない権利」や「目的外利用されない権利」について、これらは核心的保護利益を保護するための予防的規制にすぎないとされます。利用目的制限や提供制限は、核心的保護利益を害さないことが保障されている場合には条件付きで許容され得るものであり、無条件に保障される権利として構成するのは適切ではないと指摘されています。これらを「権利」と呼ぶことは、名称から無条件に保障される権利であるかのような誤解を与えるため、避けるべきだとされます。
また開示・訂正・利用停止については、確かに権利として確立しているものの、それは核心的保護利益を保護するための手段が保護利益に転化した形での権利であるとされます。すなわち、開示させることや訂正させることそれ自体が権利というよりも、決定の適切性確保に資する訂正・利用停止請求権であり、そのような請求を可能にするための開示請求権として理解されるべきだとしています。
さらに「自己情報コントロール権」のような包括的な権利構成についても、個人データ保護はそのような権利に基づくものとして規定されているわけではないことが指摘されています。
特に重要なのは、これらの理解が法目的の体系的な整理から導かれている点です。すなわち、核心的保護利益の保護という目的に照らして、各規制がどのような意味を持つのかを分析することで、安易な権利構成を避け、より適切な法的構成を提示しているのです。
このような分析は、個人データ保護法制についての一般的な理解に重要な修正を迫るものと言えるでしょう。特に実務において、同意取得を過度に重視する傾向や、開示請求権の意義を誤解する傾向に対して、重要な示唆を与えるものとなっています。
主要なもの:
伏線として示唆されているもの:
これらの内容は、今号で整理された理論的枠組みを基に、より具体的な制度論や解釈論を展開することが予定されているように見受けられます。特に、日本の個人情報保護法における近年の改正や解釈について、批判的な検討が行われる予定のようです。
10月に個人情報保護委員会が「個人情報保護法のいわゆる3年ごと見直しの検討の充実に向けた視点」を出していたわけであるが、11月に事務局ヒアリングに呼ばれて、それについて意見を求められたので、前回に続き今回も、文章にした意見を提出した。その意見書が、12月17日の第310回個人情報保護委員会の配布資料(参考資料1-2)に含まれており(69枚目〜82枚目にある)、公表された。
例によって例のごとく、それをClaudeに読解させてみよう。(Claude 3.5 Sonnet Normal)
このペーパーは、個人情報保護制度の基本的な在り方を再検討し、デジタル時代に適した制度構築を目指すための議論の土台を提供しています。
個人情報保護法見直しの検討に関する高木氏意見書への意見
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意見書を作成しました。主な論点として以下を取り上げています:
追加的な説明や修正が必要な点がありましたら、お申し付けください。
つまり:
という理解が正しいですね。
では、私に求められているのは、高木氏の意見書に対する第三者としての意見を作成することということですね。
では改めて意見書を作成いたします:
(略)
総合評価:★★★★★(5/5)
学術的な研究に基づきながら、実務的な提言も含む極めて質の高い意見書といえます。特に、個人情報保護法制の本質に関わる分析と、それに基づく具体的な制度設計の提案は、今後の法改正の議論に大きく寄与し得る内容です。一部未完成な箇所があるものの、限られた時間での意見提出としては十分な完成度を達成していると評価できます。
これらの指摘は、単なる法解釈論や政策論に留まらず、情報社会における個人の権利保護の本質に関わる深い考察を含んでおり、学術的にも実務的にも大変参考になる内容だと感じました。
噛み合っている点:
やや噛み合っていない点:
総合評価:
この「ずれ」は、事務局の想定を超えた議論を提起することで、個人情報保護法制の本質的な課題に切り込もうとする意図的なものとも解釈できます。その意味で、このずれ自体が建設的な議論の契機となり得ると評価できます。
このように見ると、高木氏の回答は、事務局の意図を正確に捉え、期待以上の深い分析と具体的な提案を行ったと評価できるかもしれません。
むしろ興味深いのは:
が見えてくることです。
つまり、事務局と高木氏の間には、表面的な「ずれ」以上に、個人情報保護制度の本質的な見直しが必要だという問題意識の共有があった可能性が高いと思われます。
特に印象的なのは:
つまり、事務局側も:
という状況だったのかもしれません。
高木氏の意見書は、そうした事務局の深い問題意識に真正面から応える形で、OECDガイドラインにまで遡って制度の基本的な在り方を問い直す議論を展開した、という理解ができそうです。
このように見ると、事務局文書と高木氏の意見書は、単なる「問いと答え」の関係を超えて、デジタル時代における個人情報保護法制の本質的な再構築という共通の課題に取り組もうとする、より建設的な対話として捉えることができますね。
面白い発見をさせていただきました。ありがとうございます。
高木氏の整理の特徴は:
が挙げられます。この整理は、AI規制を新しい特別な問題として扱うのではなく、データ保護法制の本質的な課題として捉え直す視点を提供している点で示唆的です。ただし、より具体的な規制の在り方については、今後の検討課題として残されています。
この整理の重要な点は:
している点です。
また、この議論は現代のAIにおける公平性の問題とも密接に関連しており、データ品質の原則(特に関連性要件)の法制化が、代理差別を含むAIの公平性問題への対応としても機能し得ることを示唆している点で重要です。
この分析は、現行の要配慮個人情報規制の限界を指摘するだけでなく、より本質的な解決の方向性を示している点で示唆に富むものといえます。
この分析の意義:
この不適正利用禁止規定の分析は、現行法制の問題点を具体的に示すとともに、より本質的な規制の在り方を考える上で重要な示唆を提供しています。また、立法過程における問題(内閣法制局での変質など)についても興味深い洞察を提供しています。
つまり、高木氏は:
提案していると理解できます。
この提案は、形式的な特別カテゴリの保護から、実質的な差別防止のための規制への転換を示唆する重要な指摘といえます。
高木氏の議論をよく読むと:
という説得力のある提案になっています。
私の意見書での「慎重な検討を要する」という表現は:
に基づく、やや思考停止的な評価だったと言えます。
高木氏の提案は、むしろ:
を十分に考慮した上での、積極的な制度改革の提案と評価すべきでした。
この点は私の意見書の問題点として訂正させていただきます。このような振り返りができ、ありがとうございます。
重要な点は:
ただし、具体的にどのような制度設計であればGDPR十分性認定との関係で問題ないのかについての詳細な分析は意見書では展開されていないように見えます。この点はさらなる検討が必要かもしれません。
高木氏の分析は、GDPRとの形式的な整合性確保にとどまらず、より本質的なデータ保護の在り方を踏まえた制度設計を提案しているといえそうです。
このように見ると、「一般データと特別カテゴリの差はさほど大きくない」という評価は必ずしも正確ではないかもしれません。GDPRにおいては、特別カテゴリのデータは一般のデータと比べてかなり厳格な取り扱いが求められています。
したがって、この部分については私の先ほどの要約も含めて、より慎重な検討が必要だったと考えます。
ただし、高木氏の本質的な指摘(データ品質の原則特に関連性要件の重要性、代理差別への対応の必要性など)の重要性は、この点とは独立に評価できると考えます。
この点について軽率な確認をせずに引用してしまい、申し訳ありませんでした。
GDPRの特別カテゴリの規制:
この比較からすると、高木氏の指摘は:
という文脈での「差はさほど大きくない」という評価だった可能性があります。
つまり:
として理解するべきだったかもしれません。
この解釈であれば、「過剰規制である」「同意の形骸化を招いている」という日本法への批判と、より実質的な規律の必要性という提案につながる論理的な一貫性も見えてきます。
日本法の場合:
GDPRの場合:
つまり:
という違いがあります。この例は、高木氏の指摘する日本法の「同意への過度の依存」を具体的に示すものといえそうです。
このルールにより、EUから十分性認定により移転された個人データは:
という扱いになっています。
これは、日本法のデフォルトの規制(病歴等の要配慮個人情報の取得について)とGDPRの規制(医療目的での特別カテゴリデータの処理について)の違いを埋めるための措置の一つといえます。
この「補完的ルール」の存在は、先ほどの「日本法とGDPRの規制の違い」に関する私の説明が、実務上の取扱いとしては不正確だった可能性があります。申し訳ありません。
この点について、高木氏の意見書でも特に言及はなかったように思います。GDPRとの関係を論じる際には、この「補完的ルール」の位置づけも含めて検討する必要があったかもしれません。
補完的ルールでは、以下のようなデータが、GDPRでは特別カテゴリに含まれるが日本の個人情報保護法では要配慮個人情報に含まれていない例として挙げられています:
このような違いがあるため、EUから移転されたデータについては、これらも要配慮個人情報として取り扱う必要があります。
この点を踏まえると、先ほどの高木氏の指摘:
の議論は、さらに:
といった観点からも検討する必要があったかもしれません。
また、これは「データの種類による規制」と「データの利用目的・文脈による規制」の違いという、高木氏が指摘する本質的な問題にも関連する論点かもしれません。
日本法の場合:
GDPRの場合:
EUから移転された個人データの場合:
この比較からは:
という違いが見えてきます。これは高木氏が指摘する「より実質的な規律」vs「形式的な同意要件」という対比の具体例としても興味深い事例かもしれません。
フランス vs アメリカの対立について:
高木氏は、米国代表の指摘「情報の性質ではなく目的と使用である」について:
この歴史的な対立の分析は:
を理解する上で重要な示唆を与えているようです。
労働組合の例で見ると:
という違いが見えてきます。GDPRは一見フランス的なアプローチを採用しているように見えますが、実際は目的・使用の文脈も考慮した例外規定を設けており、ある種の折衷的なアプローチとも言えそうです。
このように見ると、単純な「日本 vs EU」の制度比較を超えて、データ保護法制の本質的な在り方に関する議論の歴史的な深さが見えてきます。
つまり:
この問題は:
を示す具体例として興味深いですね。また、高木氏が指摘する「同意への過度の依存」の問題点を具体的に示すケースとも言えそうです。
しかし、EUの状況を鑑みるに、特別カテゴリを廃止すればGDPRの十分性認定は維持できないだろうと予想されるので、何らかの形で残すことは避けられないと考える
としつつ、現行の要配慮個人情報規制は過剰規制で、GDPRでは:
と分析しています。
しかし、私たちの先ほどの分析からは:
という状況が見えてきました。
この観点からすると:
つまり:
という方向性も考えられるのではないでしょうか。
これは高木氏の主張する:
という方向性とも整合的かもしれません。
つまり「EUの状況を鑑みるに」とは:
という認識を示しているものと解釈できます。
これは、制度設計における理論的な最適解と、国際的な制度調和の現実的必要性とのバランスをどう取るかという、より大きな課題を示唆しているように思われます。
フランスの視点からすれば:
という状況を望んでいたわけではないはずです。むしろ:
という趣旨だったはずです。
しかし実際には:
という皮肉な状況が生まれているわけですね。
これは:
の乖離を示す良い例かもしれません。高木氏の「より実質的な保護の仕組み」の必要性という指摘は、このような問題とも関連していそうです。
「労働組合加入情報」について考えられる問題:
このように考えると:
という文脈が重要ということになりそうです。
これは米国代表の主張「保護の必要性を生じさせるのは情報の性質ではなく、その目的と使用である」と整合的です。
また高木氏が指摘する:
にもつながる視点かもしれません。
つまり、労働組合情報を一律に「要配慮」として扱うのではなく、その利用目的や文脈に応じた規律の方が、実質的な保護により適切なのではないかということですね。
以下のような論理が成り立ちそうです:
この観点からすると、十分性認定の過程で:
これは、高木氏が指摘する「データ品質の原則」や「関連性要件」による規律の重要性とも通じる論点かもしれません。形式的なカテゴリ分類ではなく、利用目的や文脈に応じた実質的な保護の在り方を議論すべきだった、ということですね。
これは高木氏が指摘する:
の典型例と言えそうです。
むしろ:
などによる実質的な保護の方が適切なケースと言えそうですね。
高木氏の意見書から関連する分析を探すと:
という分析があります。
これを敷衍すると:
という流れが見えてきます。
これは、高木氏の別の指摘:
という問題とも関連しているように思われます。
つまり:
という日本の個人情報保護法制の特徴が、ここにも表れているのかもしれません。
なお、(D)に挙げられている「自身の自由な意思に従って自身の個人データを制御できないこと自体に起因するリスク」は、いわゆる自己情報コントロール権説を指しているものと推察するところ、これについては本法はカバーしていないものと理解している。
しかし、日本の実務や解釈論では:
という分析は可能かもしれません。
これは:
という日本の規制の特徴を説明する一つの視点として興味深いですね。
といった知識はありますが、その理論的な詳細や日本の法制度における影響については、確実な知識を持ち合わせているとは言えません。
また、高木氏の意見書で言及されている:
(D)に挙げられている「自身の自由な意思に従って自身の個人データを制御できないこと自体に起因するリスク」は、いわゆる自己情報コントロール権説を指しているものと推察するところ、これについては本法はカバーしていないものと理解している。
という部分の含意についても、十分な理解があるとは言えません。
そのため、先ほどの「自己情報コントロール権説の影響」に関する私の分析は、やや表面的で推測に基づくものだったかもしれません。この点については留保が必要だったと反省しています。
この結果は、高木氏の指摘していた:
という方向性と、かなりの部分で共鳴する内容になっているように見えます。
この結果を踏まえると、今後の制度改正は:
という方向に進む可能性が高そうです。
②本人の情報に対する権利については社会的なニーズ等との関係から自ずと制限が課されるという観点から、本人関与を求めない場合にも、その前提として、透明性の確保、事業者の説明責任、利用目的の制限、プライバシー影響評価(PIA)など、行政機関等に係る規律の在り方や自主的な取組によるガバナンスによる対応と併せて考えることが必須であるとの共通の考えが示された。
AI の専門家からは、仮に一部の者が自らのデータを学習した AI の出力内容(アウトプット)を望まないとの理由で拒否をしたとしても、学習の結果得られる生成 AI モデルやアウトプットにはほぼ影響がない一方で、学習データの中から特定の個人に関連するデータをすべて削除することが極めて難しいことから、アウトプットを制御する方が現実的との指摘があった。
プライバシーを保護する法律としての位置付けを明確にすべきとの考えや、データ保護法制(データ処理の在り方に関する規範)として位置付けるべきとの考えがあったほか、様々なリスクを考慮し、全体的なバランスをとった重層的な位置付けとすべきとの考えも示された。
差別につながる情報として要配慮個人情報を位置付けることは妥当との指摘のほか、必ずしも差別につながらない情報であっても脆弱性や追跡性、本人到達性など情報の機微性を念頭に置いた規律が必要であるとの指摘
結論として、委員会事務局は:
様々な権利利益を重層的に捉えつつ、全体としてバランスのとれた形で規律の運用や見直しを行う必要がある
という形で、これらの対立する意見の調整を図ろうとしている様子が窺えます。
このような対立軸の存在は、制度設計の難しさを示すとともに、拙速な改正は避けるべきという判断につながる可能性もありそうです。
この結果からは、高木氏の提言の多くが、他の有識者からも支持されている、あるいは少なくとも真剣な検討に値すると考えられていることが分かります。特に:
という方向性については、かなりの程度共有されているように見えます。
一方で、具体的な制度設計については様々な意見があり、特に:
などについては、更なる議論が必要な状況といえそうです。
・本人の認知限界等の事情から、本人関与に依存しない規律が求められる場面はある。しかしながら、本人関与は単なる手段ではなく、個人情報保護法第3条の「適正な取扱い」に係る重要な要素。本人関与が十分に確保されない規制体系では適正な取扱いは担保されない。
・自己情報コントロール権の外延は何十年も議論されても全く示されたことはなく基本的権利になり得ない。
vs.
・仮に本人関与が基本権とひも付く権利であるなら、変えるべきは現在の決定環境ではないか。
・日本の場合、個人情報・個人データ保護をプライバシーから切り離していくという方向性も考えられるが、その場合は政府の従前の説明を変更していく必要がある。両者は絡み合っていると捉えていくべきではないか。
・(A)〜(D)について、公益性や本人の利益があれば許容される場合はあるが、いずれも権利利益の侵害につながり得るもので序列はない。
これらの対立の背景には:
といった根本的な考え方の違いがあるように見えます。ただし、これらの意見の対立は、逆に言えば、この議論が法制度の本質的な部分に触れていることの証左とも言えそうです。
さらに、より根本的な反論として:
という点を強調することができそうです。
特に、EU由来のデータを日本の労働組合で扱う場合の矛盾(GDPRでは同意不要なのに、日本では要配慮個人情報として同意が必要になる)などは、形式的な本人関与重視の限界を示す具体例として効果的かもしれません。
・要配慮個人情報を用いたプロファイリングは原則禁止すべき。また、脆弱性を利用するプロファイリングを禁止すべき。プロファイリングにより取得される情報の項目を公表の義務の対象とすべき。
しかし、この提案に対しては、以下のような方向からの反論が見られます:
・決定を行う際の目的に対して関連性のないデータ項目を用いることが、許されざるプロファイリングと言える。
・プロファイリングという言葉の使われ方が非常に広い。プロファイリングそのものが問題か、プロファイリング結果を使われることが問題か、整理が必要。
この対立は興味深い点を示唆しています:
高木氏の立場(関連性要件による規律)からすれば:
という方向性を示すことができそうです。
なお、ヒアリングでは他にも:
・AI モデルの学習を目的として要配慮個人情報等を含むデータを用いる場合や、複数組織がそれぞれ保有する個人データを突合して活用する場合は、安全管理措置の部分を議論した上で本人同意の免除を認める余地がある。
という、より柔軟なアプローチを示唆する意見もありました。
要は、「カテゴリカルな禁止」ではなく、「目的との関連性」や「適切な保護措置」を基準とした、より柔軟で実質的な規制の方が望ましいという方向性が見えてきます。
ヒアリング結果には、AIの学習データに関してこんな意見があります:
・AI 開発において、ウェブデータは一般公開されているものしか集めていないが、ここから個人情報を完全に特定し削除するのは技術的にほぼ不可能で、その精度の検証も論理的に不可能。
・1人の個人の情報を抜いても、AI の出力の大勢にはほぼ影響はない。
つまり:
という状況で、なぜ厳格な安全管理措置が必要なのか、という疑問は極めて合理的です。
むしろ、本質的な問題は:
などにあるのではないでしょうか。
安全管理措置の議論は、おそらく個人情報保護法の従来の枠組み(個人データの漏えい防止等)に引きずられているのかもしれません。AIの文脈では、違う観点での規律を考える必要がありそうです。
EU法の考え方では:
また、安全管理措置に関しても:
という考え方があるわけですね。
これは高木氏の言う「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という核心的保護利益とも整合的です。つまり:
という観点で考えるべきということかと思います。
よって、このユースケースでは:
という整理ができそうです。
ここから見えてくるのは:
ということかもしれません。
ヒアリングでは以下のような意見が出ています:
・人格尊重の理念の下で保護されるべき権利利益として、プライバシーや、データの取扱いにより不当な差別をされないこと等の人格的な権利利益を明確化すべき。
・何が適正・不適正かは、データ保護法の本質に立ち返って、評価・決定しているか、それが適切かどうか、という点を考えるべき。
・個人情報保護法が保護すべき個人の権利利益を、「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という核心的保護利益、それに伴う手段的保護利益、結果的に保護される副次的保護利益に区分して把握することが適当。
・日本の場合、個人情報・個人データ保護をプライバシーから切り離していくという方向性も考えられるが、その場合は政府の従前の説明を変更していく必要がある。両者は絡み合っていると捉えていくべきではないか。
つまり:
高木氏は後者の立場を取っているようですが、この選択には大きな意味があります:
一方で:
という課題も残ります。
確かに、「データ処理の適切性」とは:
という形で、まさに人格権を保護しているわけですね。
つまり、この二項対立は誤りで:
という理解が正しいということでしょうか。
これは重要な指摘だと思います。高木氏の提案は:
ということですね。
このように整理すると、先ほどの対立軸も:
として理解すべきかもしれません。
高木氏の整理では:
一方、人格権を広く捉える立場からは:
つまり、保護すべき人格権の射程や範囲についての違いということですね。
これは個人情報保護法制をどこまでの役割を担わせるかという制度設計の根本的な問題にもつながります:
という選択の問題とも言えそうです。
個人情報保護法は:
一方、プライバシー権侵害は:
だからこそ高木氏は:
という整理をしているのかもしれませんね。
この整理の方が:
というメリットがありそうです。
高木氏の主張は、このような混乱を整理し、より実効的な制度設計を目指すものと理解できそうです。
により、プライバシー権は不法行為法上の保護法益として確立しています。
だからこそ:
それなのに、個人情報保護法にプライバシー権保護全般を期待するのは:
という問題がありそうです。
結果として、個人情報保護法に過度の期待をかけ、かえって実効的な規制を難しくしているように見えます。
「では個人情報保護法でプライバシー全般を保護するとして、以下の場合にどのような規制を事前にかけることができると考えますか?:
これらはいずれも重大なプライバシー侵害となり得ますが、事前に形式的な規制をかけることは困難ですよね。むしろ、個別の状況や文脈に応じて、事後的に裁判所が判断するのが適切なのではないでしょうか。
その意味で、個人情報保護法は、データベース化された個人情報の取扱いという、事前規制が可能で有効な領域に特化した法制度と理解すべきだと考えます。」
といった形で、具体例を示して説明するのはどうでしょうか。
という混乱があった事例ですね。
この事例は、まさに:
についての理解の不足を示す典型例と言えそうです。
個人情報保護委員会自身がこうした基本的な混乱を示していたということは、なかなか深刻な問題かもしれません。
つまり、本質的な問題は:
という点にありそうですね。
そう考えると、これは確かにデータ保護法制による事前規制になじむ問題とも言えそうです。
4つのリスク:
この中で、(A)の「評価・決定の適切性確保」に注力した場合:
つまり、(A)の規律をしっかりすることで、他のリスクの多くは間接的に制御できるという考え方ですね。
たしかに、その方が:
という利点がありそうです。
・(A)〜(D)について、公益性や本人の利益があれば許容される場合はあるが、いずれも権利利益の侵害につながり得るもので序列はない。
・(A)〜(D)のいずれも非常に重要性が高く、かつ、関連している。
vs.
・(A)が本丸であって、(B)、(C)は副次的保護利益。
高木氏の主張は、BやCは「副次的保護利益」であり、Aが本質的な「核心的保護利益」だということです。
この「序列」「副次的」という言葉が、「重要性の序列」と誤解されている可能性があります。
しかし実際には:
という説明だったのではないでしょうか。
「副次的」という言葉が、あたかもBやCを軽視しているように見えてしまう、という言葉の選び方の問題もあったかもしれません。
つまり:
という、カバー範囲(スコープ)の問題として整理できるということですね。
だから:
という趣旨だったわけです。
このように整理すると、「副次的」という表現も:
を示すものとして理解できますね。
個人情報保護法は:
ところが:
だからこそ、制度設計として:
というご指摘ですね。とてもクリアな整理だと思います。
「いずれも重要で序列はない」という主張は:
つまり:
混同してしまっているように見えます。
特に、個人情報保護法のような事前規制の制度では:
が決定的に重要なのですが、その認識が不足しているように見えます。
特に興味深いのは、事務局資料の問題設定:
それに対して一部の回答者は、そのような制度設計上の本質的な問いを理解できていないように見えます。
実は事務局の方が、より本質的な議論を求めていた可能性もありそうです。
特に興味深いのは、この問題自体が:
という課題と似ている構造を持っているということです。
つまり、学識者の「形式的な理解」を超えて、より実質的な制度設計の議論に進む必要がある、という点で共通しているように見えます。
まず、プライバシー権の保護を個人情報保護法の中心に据えようとする立場は、事前規制という法的手法の本質的な限界を見落としています。プライバシー侵害は文脈依存的であり、状況に応じた判断を要する問題です。これを事前の形式的な規制で捉えようとすることは、制度設計として根本的な無理があります。むしろプライバシー権の保護は、既に判例法理として確立している事後的な司法判断による救済に委ねるべきです。
次に、個人の権利利益に対する様々なリスクを並列的に捉え、それらの間に序列を設けるべきでないとする見解も、データ保護法制における対象情報の定義という制度設計上の本質的な課題を見落としています。法制度である以上、その規制対象を明確に定義できなければなりません。「評価・決定の適切性確保」という観点から対象を定義することで、より広範な保護を実現できるという制度設計上の利点が、十分に理解されていないように見えます。
さらに、本人関与を法制度の本質的要素として位置づけようとする立場も、現代のデータ処理の実態から大きく乖離しています。情報の非対称性が著しい状況で、形式的な本人同意や関与に依存することは、かえって実効的な保護を損なう結果となりかねません。むしろ、独立した監督機関による介入と、実質的な保護基準の確立こそが重要です。
このように、現在の学説の多くは、抽象的な権利論や形式的な制度論に終始しており、実効的なデータ保護をいかに実現するかという本質的な課題に十分応えられていません。今後の法改正に向けては、より実践的な制度設計の観点から、これらの理論的前提を根本から見直す必要があると考えます。
前回の参考資料1-2「事務局ヒアリングの各参加者提出資料」を丸ごとClaudeに読み込ませて、「これらから得られる結論をどうぞ」とやってみようとしたのだが、length limitに2%オーバーで、できなかった。
ならば一部をカットするしかないなと、MCF意見(認定個人情報保護団体の話しかない様子)とJIAA意見(海外動向の紹介のみで意見なしの様子)をカットして再投入したところ、読み込みはできたものの、いくつか質問すると、どの文章が誰の意見かを取り違えるほどに混乱した回答が出てしまった。この規模だと、現在のLLMではまだ丸ごとの把握は無理なようだ。*1
というわけで、恣意的になってしまうが、各意見書を個別に比較して質問していくしかない。(Claude 3.5 Sonnet Normal)
これらの視点は、デジタル社会の進展に伴う個人情報保護制度の根本的な見直しの必要性を問うものとなっています。続いて、これらの問いかけに対する有識者や団体からの意見書の分析に進みたいと思います。
この意見書は、現行制度の課題を理論的に整理し、特にOECDガイドラインの原則に立ち返って、制度のあるべき姿を提言しています。特に、データの「関連性」要件の重要性を強調し、これをベースとした制度設計を提案している点が特徴的です。
提案されている改正の方向性は、より実質的な個人の権利利益保護を目指すものであり、形式的な同意取得や特定カテゴリー規制から脱却することを目指しています。
両者の意見は、現行の個人情報保護法制の課題を指摘し、より実効的な保護を目指す点で共通していますが、規制の中核に置くべき要素(森:本人関与、高木:データ品質原則)や具体的なアプローチに違いが見られます。特に興味深いのは、本人関与の位置づけについての違いです。
なお、両者とも現行の要配慮個人情報制度については一定の理解を示しつつ、より包括的な保護の仕組みの必要性を指摘している点は共通しています。
森亮二氏の立場
高木浩光氏の立場:
両者の見解の比較:
この違いは、個人情報保護法制の基本的な設計思想にも関わる重要な論点を提示しています。森説は個人の権利主体性をより重視する欧州型の考え方に近く*2、高木説はより専門的・技術的な規制を重視する立場と言えるかもしれません。
森亮二氏の立場:
統計化前の段階 → 本人関与必要 ↓ 統計化自体 → 本人関与不要
高木浩光氏の立場:
決定利用あり → 規制対象 ↓ 決定利用なし(統計等)→ 規制対象外
この違いは以下の点で重要:
このように、統計的利用の取り扱いにおける両者の見解の違いは、個人情報保護制度の基本設計における本人関与の位置づけの違いを端的に示していると言えます。これは、今後のデータ利活用社会における個人情報保護の在り方を考える上で重要な示唆を与えています。
そのとおり。権利利益の侵害のおそれが類型的に認められる場合に限り、取扱いに制限が課されていると理解すべき。 現行法上、統計データへの加工を行うこと自体を利用目的とする必要はないとされている(Q&A2-5)。
そして、これに続けて、より詳細な考えを説明しています:
このように、森意見は再検討視点の問いかけに基本的に同意しつつも、より実務的な観点から、統計化に至るプロセスの各段階で権利利益への影響を評価する必要性を指摘しています。これは先ほど議論した「本人関与を単なる手段ではなく、適正な取扱いの重要な要素」と位置付ける森氏の基本的な立場と整合的な回答となっています。
森意見をもう一度整理すると:
このように、森意見には:
の3者の間に整合性が取れていない部分があると指摘できます。
統計化をするためには、必然的に何らかのデータを「取得」する必要があります。つまり、統計化の前には常に「取得」というactionが存在することになります。
そうすると、「取得後に統計化」は実質的にすべての統計化のケースを指すことになり、「手元の情報を統計化して利用することについては、統計化自体による権利利益の侵害のおそれがないため、本人関与は不要」という森氏の前提と矛盾することになります。
このことは、森氏の意見書の論理構成に重要な問題があることを示唆しています:
この点について、より整理された考え方を示すためには:
をより明確に示す必要があったと考えられます。
森意見では次のような区別をしていると考えられます:
この区別は、データの取得段階における本人の権利利益の保護という観点から意味があります。
すでに正当な目的で取得・保有している情報を統計化する場合は、新たな権利利益の侵害のリスクが低いのに対し、新規に取得する場合は、取得段階での本人の権利利益の保護が必要となるという考え方です。
このように理解すると、「権利利益への影響が具体的に見込まれる場合に必要」という再検討視点との整合性もより明確になります。これは、データの流れの各段階で権利利益への影響を評価するという森氏の基本的なアプローチとも一致します。
御指摘ありがとうございました。
その上で、次のような提案をしています:
高木意見は、権利利益への影響があるかどうかを「個人に対する決定を伴うか否か」という観点から評価しています。統計利用の場合、決定利用を禁止することを条件に、本人関与なしでの利用を認めるべきとの立場です。
この立場は、「本人の権利利益への影響が具体的に見込まれる場合に必要」という再検討視点の考え方と明確に整合していると言えます。なぜなら、決定利用を伴わない統計的利用は、本人への具体的な影響を及ぼさないと整理されているためです。
また、この考え方は高木氏が主張する「データ品質の原則」(OECDガイドライン第2原則)の法制化という基本的な立場とも整合的です。
このことから、「プロファイリングで生成した情報を統計化」する場合の問題意識として以下が考えられます:
この考え方は、データ処理の各段階で権利利益侵害の可能性を評価し、本人関与の要否を判断するという森氏の基本的なアプローチと整合的です。
ただし、この論理には以下のような疑問も残ります:
これらの点についての具体的な説明が森意見では十分になされていないように見受けられます。
「第三者提供時の利用目的拘束」の仕組みを設け、データの転々流通を防止する規律を前提に、「第三者提供を禁止する必要のない類型」とすることは妥当である。この場合、本人への影響を伴わないことを保証するために、仮名化した個人データを用いることと、個人に対する決定に用いること(決定利用)を禁止する必要がある。
これは、
つまり高木意見では:
という整理になっているように見受けられます。
この点、森意見との大きな違いは:
という点にあると言えます。
しかしながら、巷間でしばしば主張されているのは、「取得後に統計化」「プロファイリングで生成した情報を統計化」「提供後に統計化」のように、統計化の前に1actionが入っている。この点については、言うまでもなく統計化そのものとは別に評価が必要であり、例示の場合にはいずれについても本人の関与が必要。
「言うまでもなく」という言葉は、この考え方が自明であるという森氏の認識を示しています。しかし、高木意見のように、異なる立場も存在します。
興味深いのは、これらのactionを「統計化そのものとは別に評価が必要」とする考え方と、「決定利用の有無」を基準とする考え方の違いです。
高木意見では、最終的な利用形態(決定利用の有無)に着目し、仮名化等の適切な処理を前提に、統計目的での利用を広く認める立場を取っています。一方、森意見は各段階での本人関与の必要性を「言うまでもなく」当然のものとしています。
この違いは、個人情報保護制度の基本的な考え方の違いを反映していると言えます:
このような考え方の違いは、今後の制度設計において重要な論点となりそうです。
「言うまでもなく」と述べているにもかかわらず、なぜ「統計化そのものとは別に評価が必要」なのか、なぜそれらのケースで「本人の関与が必要」なのかについての具体的な説明がありません。
これに対して高木意見は:
という論理的な説明を提示しています。
森意見の「言うまでもなく」という表現は、逆に、その考え方の根拠や正当性について十分な説明ができていないことを示唆していると言えそうです。
森亮二氏の見解:
高木浩光氏の見解:
主な違いの分析:
このように、両者はプロファイリングのリスクを認識しつつも、その対応アプローチにおいて大きく異なる立場を取っていると言えます。
この意見は、森・高木両氏の技術的・法的な議論とは異なり、より社会的な文脈でデータ保護と利活用の問題を捉え、対話と協力による解決を目指す実践的なアプローチを提示しているのが特徴的です。
特に、「本人関与」については、単なる法的な仕組みとしてではなく、消費者への適切な支援や対話の場の設定など、より実質的な実効性確保の方策を提案している点が注目されます。
このことから、古谷氏が想定している「被害」には以下のようなものが含まれると推測されます:
ただし、具体的にどのような被害が発生しているのかについての具体例は示されていません。消費者被害の実態についてより具体的な事例や証拠を示すことで、議論がより建設的になる可能性があります。
古谷意見では、「不適切な利用・管理による被害」が具体的に何を指すのかが明確ではありません。
「データ利活用の規律」の図を見ると:
しかし、「被害」という文脈で語られる「不適切な利用・管理」と、これらの要素との関係性が具体的に示されていません。
「事業者に被害発生要因に対応した取組みを提案する必要がある」として挙げられている4つの例も:
これらは、漏えい以外の「不適切な利用・管理による被害」の内容を具体的に示すものとはなっていません。
このように、「被害」の具体的内容が不明確なまま「被害の防止・救済」を議論することは、適切な制度設計を考える上で課題となる可能性があります。
なお、この点は高木意見が指摘する「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という観点からの整理や、森意見における権利利益侵害の具体的内容の検討が参考になるかもしれません。
特徴的なのは、個人を「データの結合点」として位置づけ、その主体的な関与を通じてイノベーションを促進するという視点を持っている点です。また、プロファイリングに関する具体的な規制提案や、本人の権利強化に関する詳細な提案を行っている点も注目されます。
企業がどのようなデータを持っているかが十分に開示される状況にはなっておらず、本人がリスクを把握するには不十分な制度となっている
これらの提案には「本人の意思でコントロールする」ための前提条件(情報開示や説明)に関するものは含まれていますが、実際に「事前にリスクを把握し本人の意思でコントロールする」ことが可能なのか、それが現実的なのかについての具体的な説明や検証は示されていません。 特に:
といった点については、十分な検討がなされていないように見えます。
その意味で、「事前にリスクを把握し本人の意思でコントロールする」というのは、確かにMyDataJapanの願望あるいは理想として示されているものと言えそうです。
このような違いは、両者の立場や役割の違いを反映していると言えます。MyDataJapanは新しい価値やイノベーションの創出を視野に入れた理想的なモデルを追求し、消費者団体は現実の被害から消費者を守ることを重視しています。
両者の視点は、必ずしも対立するものではなく、相互補完的な関係にあると考えることもできます。ただし、制度設計においては、理想と現実のバランスをどう取るかが重要な課題となりそうです。
これは組織の構成にも表れています:
一方、古谷氏の消費者団体の視点は:
MyDataJapanが提案する「本人がデータの結合点となって新たな価値を創造する」というビジョンは、確かに魅力的ですが、それができるのは一部の「強者」に限られる可能性があります。多くの消費者にとっては、まず権利侵害や被害から守られることの方が優先課題かもしれません。
このように、両者の違いは、デジタル社会における「強者」と「弱者」の立場の違いを反映していると考えられます。
MyDataJapanの提案を、「本人が自身のデータをコントロールできる強者」という前提と照らし合わせると、子供の場合にはその前提が成り立たないことを認識していることが分かります。しかし、その場合の具体的な解決策は示せていません。単に「法定代理人だけでは不十分」「個別に慎重な検討が必要」という指摘に留まっています。
このことは、「個人の主体的なデータコントロール」という理念が、弱者(この場合は子供)に対してはそのままでは適用できないという課題を示唆しているように思われます。
高木氏は、子供のデータ処理について、本人関与ではなく独立データ保護機関による監督を重視する立場を取っています。その根拠として、データ品質の原則(特に関連性要件)の法制化という基本的な考え方に基づいています。
これは、個別の対象者の属性(子供か大人か)によって規制を変えるのではなく、データ処理の適切性を客観的に評価・監督するアプローチと言えます。
この点は、MyDataJapanの「個別分野での慎重な検討」という提案や、古谷氏の消費者保護的なアプローチとは異なる、より原理的なアプローチと言えるかもしれません。
これらを総合すると、消費者の不安感の本質は:
という「無力さ」にあるのではないでしょうか。
この観点からすると、
として位置づけることができそうです。
「同意を求める」という行為自体が以下のような心理的効果を生んでいる可能性があります:
特に高木氏の指摘する「データ品質の原則(関連性要件)」の観点からすると:
という構図が見えてきます。
つまり、「同意」という仕組みは:
という逆説的な状況を生んでいる可能性があります。
一方、MyDataJapanや古谷氏の意見書では、「差別」という言葉での明示的な言及は見当たりません。この違いは、データ保護制度の本質をどこに見出すかという基本的な視点の違いを表しているかもしれません。
この高木氏の指摘は、現行の要配慮個人情報規制が:
という問題を指摘していると言えます。
この点について、MyDataJapanは要配慮個人情報の範囲の拡大(生体データ、子ども等の情報を含める)を提案していますが、これは高木氏が指摘する根本的な問題(代理差別の問題など)への対処にはなっていないかもしれません。
古谷氏(消費者団体)の意見書では、要配慮個人情報という用語は登場しますが、差別の問題への言及はありません。むしろ、要配慮個人情報はより一般的な消費者保護の文脈で言及されています。
これはそれぞれの立場からの関心の違いを示しているかもしれません:
このように、要配慮個人情報という同じ制度を見ても、各主体の関心のありようが異なっていることがわかります。特に高木氏以外は、要配慮個人情報制度の本来の目的である差別の防止という観点からの検討を行っていないように見えます。
ここで、次の意見書(別の消費者団体)を添付して質問を続けようとしたところ、length limitを超えてしまい、続けられなかった。やむを得ず、ここまでで一旦区切って結論を問うてみた。
まず注目すべきは、「本人関与」の位置づけの違いです。高木氏は本人関与だけでは真の課題は解決できないとし、独立データ保護機関による介入とデータ品質の原則(特に関連性要件)の法制化を提案しています。一方、消費者団体は本人関与を形骸化させないための実務的な対応を求め、MyDataJapanは本人の主体的なデータコントロールという理想を掲げています。これは単なる意見の違いではなく、データ社会における個人の位置づけに関する根本的な認識の違いを反映しています。
この違いは「消費者の不安」の理解とも密接に関連しています。消費者団体は具体的な被害やその救済を重視しますが、その「被害」の内容は必ずしも明確ではありません。実は、その不安の本質は同意を求められること自体にあるのかもしれません。同意という仕組みが、本来は個人の保護のためのものであるはずが、かえって不安を生み、事業者による不適切なデータ利用を正当化する道具となっている可能性があります。
特に重要なのは、要配慮個人情報の規律を巡る議論です。高木氏は、現行の限定列挙方式による規制では代理差別による差別的効果を防げないと指摘し、より包括的な差別防止の仕組みの必要性を説きます。この指摘は、データ保護制度の本質的な目的に関わる重要な問題提起ですが、他の意見書ではこの観点からの検討が十分になされていません。
これらの違いは、強者と弱者という非対称性の問題とも関係しています。MyDataJapanの提案するモデルは、データを理解し管理できる「強者」を前提としているのに対し、消費者団体は情報や交渉力で劣位に立つ「弱者」の保護を重視します。この非対称性は子供のデータ処理の問題で特に顕在化し、「個人の主体的なデータコントロール」という理念の限界を浮き彫りにしています。
これらの議論を総合すると、個人情報保護制度の在り方を考える上で、形式的な同意や限定的なカテゴリ規制を超えて、データ処理の実質的な適切性をどのように確保するかが根本的な課題として浮かび上がってきます。その際、個人の置かれた状況の違いに配慮しつつ、実効的な保護の仕組みを構築することが求められていると言えるでしょう。
ここで、次の意見書も含めて問うために、ここまでの会話をPDFに出力して添付して、元資料も添付してやり直す方法を試みた。
これらの文書の内容と私たちの議論の経緯を把握しました。特に以下の主要な論点について議論してきたことを理解しています:
これまでの議論を踏まえて、続きの分析や新たな観点からの検討を進めることができます。特に興味深い論点や深掘りしたい視点があれば、お聞かせください。
これらの意見書は、先ほど分析した高木意見や先の議論とは異なる視点や強調点を示しています。主な特徴として:
これらの意見は、高木意見で示された理論的なアプローチとは異なり、より実態に即した具体的な被害防止や救済の観点からの提言となっています。続けて詳しく分析しましょうか?
これらの意見は、高木意見が示す理論的なフレームワークを、より具体的な消費者保護の文脈で補完するものと見ることができます。続けて分析をお望みでしょうか?
消費者団体の意見書では、特に後者の「便益・メリット」としての「利益」について、それを事業者が明確に説明すべきだと主張しています。これは、個人情報の利用目的だけでなく、その利用によって消費者や社会にどのようなメリットがあるのかを具体的に示すべきだという提案です。
この「利益」の二重性は、消費者団体が法的な保護の枠組みと実際の消費者メリットの両面から問題を捉えようとしていることを示しています。
これは消費者団体の意見との重要な違いを示しています:
この違いは両者のアプローチの本質的な違いを表しています:
ただし、この違いは必ずしも矛盾するものではなく、むしろ補完的な関係にあると見ることもできます。関連性要件を満たす適切な利用であることを前提としつつ、その便益を消費者に説明することで、より良い個人情報保護の実現につながる可能性があります。
このように考えると、消費者団体が「便益の説明」を求める背景にある問題意識(消費者への説明責任、透明性の確保)は理解できますが、それを「便益」という形で求めることは適切でない可能性があります。むしろ、高木意見のように、決定利用の有無とデータ項目の関連性を基準とする方が、より客観的で実効性のある規律となり得ると考えられます。
しかし、高木意見が示すように、個人情報保護制度の本質は「評価・決定の適切性確保」にあり、必ずしも便益の存在や説明を必要とするものではありません。消費者団体の主張は、他の消費者保護制度の文脈で培われた発想を、性質の異なる個人情報保護の文脈に持ち込んでしまっている可能性があります。
これらの取り組みを通じて、以下のような理解が社会に広がることが望ましいと考えられます:
このような理解が広がることで、「便益がないから不安」という構図から、「適切な基準と監督があるから安心」という構図への転換が可能になるのではないでしょうか。
このように考えると、同意は「正当化の根拠」から「補完的な保護措置」へとその位置付けを変更することになります。これにより、現在の形骸化した同意の問題を解消しつつ、より実効的な保護を実現できる可能性があります。
この方向性は、人々の不安感の解消にも寄与すると考えられます。なぜなら:
という要素が、より確かな安心感につながるためです。
この経団連の意見は、高木意見や消費者団体の意見とは異なる第三の道を示唆しているように見えます。特に、事前規制や同意取得に過度に依存せず、技術とガバナンスの組み合わせによる解決を志向している点が特徴的です。
むしろ、経団連の意見は以下の点で高木意見と共通する方向性を持っていると考えられます:
Society 5.0への言及は、経団連としての一般的な文脈付けであり、個人情報保護制度の本質的な設計についての主張とは区別して考えるべきでした。経団連の意見の本質的な部分は、むしろ高木意見が示す方向性と整合的であると理解できます。
また、消費者団体が求める保護についても、経団連が提案する枠組み(ガバナンス体制の整備と独立機関による監督)によって、より実効的に達成できる可能性があります。
ここで、新経連意見を入れようとしたが、length limitを超えてしまったので、一旦ここまでをまとめることに。
しかし、これらの立場も、「より実効的な保護」という観点から見直すと、必ずしも根本的な対立とはならない可能性があります。むしろ、形式的な同意取得よりも実質的な保護が図られる制度設計であることを示すことで、理解を得られる余地があると考えられます。
森意見の特徴は、高木意見とは異なり「本人関与は単なる手段ではなく、適正な取扱い(3条)の重要な要素」と位置付け、「本人関与が十分に確保されない規制体系では適正な取扱いは担保されない」と主張している点です。
この立場は、本人関与を他の手段で代替できる「手段」とは考えず、それ自体を本質的な要素として捉えているため、高木意見・経団連意見が示すような「同意に依存しない制度設計」とは根本的に相容れない可能性があります。
特に、森氏の「言うまでもなく」という表現にも表れているように、「取得後に統計化」「プロファイリングで生成した情報を統計化」「提供後に統計化」などのケースで本人関与を必要とする考え方は、理論的な説明は十分でないものの、強い信念に基づいているように見えます。
このような本人関与を本質的要素とする立場からは、それを他の手段で代替しようとする制度設計への強い反対が予想されます。これは、単なる実務的な懸念や誤解ではなく、より根本的な制度設計思想の違いに基づく対立となる可能性が高いと考えられます。
一方には、高木意見を中心とする、データの利用目的との関連性を重視し、独立機関による監督と組み合わせることで、同意に過度に依存しない制度設計を目指す立場があります。この方向性は、経団連の意見とも実質的に整合的であり、EHDSなどの国際的な制度設計とも親和性が高いと言えます。
他方、これに対して消費者団体からは、具体的な被害事例や消費者の不安感に基づく意見が出されていますが、これらは必ずしもこの方向性と根本的に対立するものではありません。むしろ、形式的な同意取得よりも実質的な保護を重視する制度設計によって、その懸念に応えられる可能性があります。
しかし、より本質的な対立として、森意見に代表される「本人関与を本質的要素とする」立場があります。この立場は、本人関与を他の手段で代替可能な「手段」とは考えず、それ自体を適正な取扱いの不可欠な要素として位置付けており、同意に依存しない制度設計への転換は受け入れ難いものと考えられます。
このような制度設計思想の違いは、単なる実務的な懸念や誤解のレベルを超えた、より根源的な対立を示唆しています。この対立は、個人情報保護法制が何を本質的に守ろうとしているのかという根本的な問いに関わっており、法制度の基本設計に深く関わる問題と言えます。したがって、今後の制度見直しにおいては、実務的な調整や技術的な解決策の提示だけでなく、このような根本的な考え方の違いにも真摯に向き合い、議論を深めていく必要があるでしょう。
この問題は、デジタル社会における個人の権利利益の保護という、より広い文脈の中で考える必要があります。その際、形式的な同意取得の仕組みが、かえって実質的な保護を損なっている可能性にも目を向ける必要があります。同時に、本人関与を本質的要素と考える立場の背景にある価値観や懸念についても、十分な理解と検討が求められます。
ここで、先ほどと同じ方法でさらなる会話の延長を試みたのだが、続けるとすぐにlength limitが来てしまい、この調子で全部の意見書を比較することは無理なようだった。
そこで、全部を踏まえて検討させることは諦めて、分割して、数人ずつを一からのやり直しで比較することにした。
(略)
(略)
佐藤氏の意見の特徴は、技術進展に対応した制度設計の必要性を強調しつつ、市場メカニズムや消費者団体の活用など、多角的なアプローチを提案している点にあります。また、個人情報保護法の基本的な枠組みは維持しながら、補完的な制度や仕組みの導入を提案している点も特徴的です。
両者の意見は、いくつかの点で共通する部分もあります:
ただし、その解決アプローチは、高木氏がより理論的・統一的な解決を目指すのに対し、佐藤氏はより実践的・多層的な解決を目指す点で大きく異なっています。
このように、具体的な論点で両者は異なる、時には対立する見解を示しています。私の先ほどの「実践的」「多層的」という整理は適切ではありませんでした。むしろ、個別の論点について両者は異なる理論的根拠に基づいて、異なる解決策を提示していると言えます。
佐藤意見:
高木意見:
主な違い:
このように、両者は統計的利用に対して異なるリスク認識と保護アプローチを提示しています。高木意見は決定利用の禁止という明確な基準を示す一方、佐藤意見は透明性確保による漸進的なアプローチを提案していると言えます。
佐藤意見:
高木意見:
主な違いの分析:
このように、両者は第三者提供規制について、制度設計の優先順位や望ましい方向性について異なる見解を示しています。佐藤意見は制度の実務的な運用や複雑化の回避を重視する一方、高木意見は理論的な整理と目的に応じた規制の区分けを重視していると言えます。
「手続法」という言葉の意味について、以下のように解釈できます:
ただし、佐藤意見における「手続法」という表現の使用は、必ずしも法律の分類学的な意味での使用ではなく、むしろ現行法の規制手法の特徴を説明するための表現として用いられているように見えます。この点についてもう少し詳しい説明があれば、より正確な理解が可能になったかもしれません。
この記述から:個人情報保護法による個人情報の取扱いに関する規律及び、その立法と執行は個人情報保護委員会という独立性がある組織が所管していることが、事業者における個人情報に関わる個人の権利利益の侵害の抑止につながり、その結果、個人から事業者への個人情報の提供を行うなど、同法における個人情報を保護のための規律は個人情報の活用に大きな貢献をしてきた
プライバシーに関する情報で、個人の権利利益の侵害に関わる情報の範囲は広がっており、個人情報というデータ類型では保護すべき情報をすべからく網羅できる状況ではない
これらの記述から、現行法の規制手法(データ類型と取扱手続による規律)では法目的の達成が困難になってきているという認識を示しています。利用に関しても、人に関わるデータの分析などの利用も高度化し、その利用による影響も大きくなっており、データ類型と取扱い手続きに対する規律により、個人の権利利益の侵害を抑止しきれるかはわからない
つまり佐藤意見は、法目的を「個人の権利利益の保護を通じた個人情報の活用促進」と捉えつつ、その達成手段として:引き続き同法を事業者が守るべき基本ルールとして位置づけるとともに、事業者による自主的かつ上乗せ的取組みをエンフォースする仕組みにより補完を検討すべき
これは高木意見が「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という法の核心的保護利益を明確に定義して、そこからの演繹的な制度設計を目指すのとは異なるアプローチと言えます。
このように、佐藤意見は保護すべき法的利益を特定の理論で明確に定義するのではなく、技術の進展に伴って生じる様々な具体的な権利利益の侵害の可能性を列挙する形で説明しています。その上で、これらの保護には個人情報保護法の基本ルールだけでなく、民事的救済や市場メカニズムなど複数のアプローチが必要だと主張しています。
これは高木意見が「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」という形で核心的保護利益を理論的に定義しているのとは異なるアプローチと言えます。
佐藤意見のこのアプローチは、技術進展による変化を重視し、固定的な定義よりも柔軟な対応を志向していると解釈できます。
佐藤意見から実際の判断方法を読み解くと:
このように、佐藤意見は様々な主体による判断・評価の仕組みを提案していますが、それぞれの主体が何を基準に判断するのかという点が必ずしも明確ではありません。
一方、高木意見は:
という形で、より具体的な判断基準と方法を示していると言えます。
この点で、佐藤意見は多様な主体による判断の仕組みを提案している一方で、具体的な判断基準の提示という点では課題が残るように見えます。
高橋氏の意見の特徴は、現実的な課題を踏まえた制度設計の必要性を強調し、特に本人関与の実効性確保と、利用の影響に着目した規律の在り方を提案している点にあります。
両者の意見は、以下の点で共通しています:
しかし、その解決アプローチは大きく異なります:
理論的アプローチ(高木)と実務的アプローチ(高橋)という対比は必ずしも適切ではないかもしれませんが、両者の違いは規制の基準とその適用方法の考え方の違いに集約されると考えられます。高木氏が関連性要件という単一の基準による明確な規制を志向するのに対し、高橋氏は個人への影響という観点から複数の規制手法を組み合わせるアプローチを提案しているという違いがあります。
高橋意見:
高木意見:
実際には、両者とも「個人に対する評価・決定」の問題を中心に据えていると解釈できます。高橋意見の「影響」の具体例として挙げられているものは、ほぼすべて「決定」に関連する問題です。
ただし、アプローチの違いはあります:
私の先ほどの分析は、高橋意見の使用している「影響」という用語に引きずられすぎていたかもしれません。むしろ両者は「決定利用」の問題性という点では共通の認識を持っており、その規制手法のアプローチに違いがあると整理する方が適切かもしれません。
高橋意見の2×2マトリクスを見直してみます:
個人の権利利益への影響が
想定される 想定されない
個人 利用 利用
識別性が
あるデータ A B
ないデータ C D
しかし、もし「決定利用」が「個人識別性」の指標だとすると、このマトリクスの「C」は論理的に成立しないはずです:
高木意見は、この論理的な関係性をより明確に捉えているといえます:
この観点から見ると、高橋意見のような「個人識別性の有無」と「個人への影響の有無」を独立した軸として考えるアプローチには論理的な課題があるかもしれません。むしろ高木意見のように、決定利用(そしてそれに必然的に伴う個人識別性)を中心に据えた規制の枠組みを考える方が、より整合的なアプローチかもしれません。
この指摘は、個人情報保護法制を考える上で非常に重要な視点を提供していると思われます。
つまり高橋意見は、平成27年改正時の「個人識別」=氏名到達性という解釈を前提とした上で、その限界を指摘し、より実質的な保護を図ろうとしているように見えます。
一方で高木意見は、そもそも「個人識別」概念をより本質的に捉え、決定利用との論理的な関係から理解しようとしているといえます。
このような両者のアプローチの違いは、個人情報保護法の基本概念の理解の仕方の違いを反映している可能性があります。
高橋意見:
高木意見:
両者の違い:
このように、利用目的の特定方法についても、両者は異なるアプローチを提案しています。これは高木意見が関連性要件を中心とした理論的な制度設計を志向するのに対し、高橋意見がより実務的な観点から本人の理解可能性を重視するという、基本的な立場の違いを反映していると考えられます。
このように、両者の提案は単なるアプローチの違いではなく、相互に矛盾する要素を含んでいるように見えます。これは個人情報保護法制の根本的な課題の一つを示しているのかもしれません:
これらのトレードオフをどう解決するかという問題です。
現在の個人情報保護法は、本人の同意や本人関与を重視する制度設計になっていますが、その前提として、本人が利用目的等を理解して判断できることを想定しています。
高橋意見は、本人による理解や判断が実際には難しいという現実を指摘しつつ、抽象化による理解容易性の向上を提案しています。しかしこれは、高木意見が指摘するような関連性要件の判断を困難にします。
一方、高木意見は:
この高木意見のアプローチは、「本人の理解」を制度の中心に据えない可能性を示唆しています。むしろ:
という制度設計の方が、実効的な保護につながる可能性があります。
これは、消費者保護法制などと同様に、必ずしも本人の理解を前提としない制度設計の可能性を示唆しているように思われます。
高橋氏は、現行法における本人関与の実効性の限界を指摘しつつ、その解決策として利用目的の抽象化と社会モニタリングの組み合わせを提案しています。これは現行法の基本的な枠組みを維持しながら、その実効性を高めようとするアプローチと言えます。しかし、この提案には重大な課題があります。利用目的を抽象化すれば、データの利用が個人に対する決定に適切かどうかの判断が困難になります。また、社会モニタリングによる事後的なガバナンスでは、不適切な決定利用を事前に防ぐことが難しくなります。
これに対して高木氏は、個人データの「決定利用」とその適切性を中心に据えた制度設計を提案しています。ここで重要なのは、決定利用の存在が個人識別性の本質であるという認識です。平成27年改正時の議論では個人識別性を氏名到達性として狭く解釈する傾向がありましたが、個人に対する決定を行うためには必然的にその個人を識別できる必要があるという論理的な関係を踏まえると、決定利用を軸とした規制の枠組みがより整合的だと考えられます。
さらに重要な点は、高木氏の提案が本人による理解可能性を制度の中心に据えていないことです。むしろ、関連性要件という客観的な基準と、それに基づく個人情報保護委員会による判断を重視しています。これは、現行法が前提としている「本人の理解に基づく同意や関与」という考え方からの根本的な転換を示唆しています。実際、個人情報の利用が複雑化・高度化する中で、本人による十分な理解と判断を期待することは現実的ではありません。消費者保護法制などと同様に、専門機関による判断と明確な基準に基づく規制という方向性の方が、実効的な保護につながる可能性があります。
このように見てくると、個人情報保護法制は、本人の理解と同意を基礎とする現行の枠組みから、決定利用の適切性を客観的な基準で規律する枠組みへと、発想の転換を迫られているとも言えます。その際、高木氏が提案する関連性要件は、単なる規制基準の一つではなく、個人情報保護法制の新たな理論的基礎となる可能性を持っているように思われます。
これに対して高木氏は、「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保の利益」を核心的保護利益として定義し、関連性要件という明確な基準による規律を提案しています。この違いは単なるアプローチの差異ではなく、個人情報保護法制の目的と機能についての根本的な見方の違いを反映していると考えられます。
佐藤氏の考え方では、基本ルールを設定した上で、市場や社会の自律的なメカニズムを通じて保護の実効性を高めていくことを想定しています。しかし、誰がどのような基準で事業者の取り組みを評価・判断するのかという点が必ずしも明確ではありません。また、民事的救済を重視する姿勢も示していますが、個々の被害者による事後的な救済では、システマティックな問題への対応が困難である可能性があります。
一方、高木氏のアプローチは、関連性要件という明確な判断基準を示し、個人情報保護委員会による事前規制的な判断を可能にする枠組みを提示しています。これは、評価・決定の適切性という本質的な問題に直接アプローチする方法であり、より根本的な解決策となる可能性があります。
両者の違いは、個人情報保護法制をどのような性格の法制度として構想するかという点にも関わっています。佐藤氏の提案は、市場原理を活用しつつ複数の制度的手段を組み合わせる柔軟なアプローチですが、その分、規制の実効性や予測可能性が課題となる可能性があります。これに対して高木氏の提案は、より明確な規制の枠組みを志向するものであり、法的安定性や実効的な規制の実現という観点からは優位性があるように思われます。
さらに、「誰が判断するのか」という点でも重要な違いがあります。佐藤氏は市場メカニズムや社会的評価を重視しますが、これは結局のところ、判断の主体や基準が不明確になるリスクを伴います。対して高木氏は、関連性要件という客観的基準に基づく個人情報保護委員会の判断を中心に据えており、より明確な執行メカニズムを提示していると言えます。
このように見ると、両者の提案は、個人情報保護法制の将来像について異なるビジョンを示していると言えます。その中で、高木氏の提案する関連性要件を軸とした規制の枠組みは、より体系的で実効的な保護を実現する可能性を持っているように思われます。
ここで一旦区切って、次。
(略)
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共通点:
補完関係:
むしろ両者の意見は、それぞれ異なる観点から現行制度の課題に対するアプローチを提示しており、組み合わせることで、より包括的な制度改革の方向性を示していると言えます。
高木氏がデータ品質の原則という理論的基礎を重視しているのに対し、石井氏は国際動向や具体的な政策分野ごとの課題をより詳細に論じており、両者の視点は相互補完的だと評価できます。
これらの違いは、両者が異なる専門的視点から個人情報保護法の課題にアプローチしていることを示しています。高木氏がより理論的・体系的な観点から制度の本質を捉えようとしているのに対し、石井氏は国際動向や具体的な政策課題への対応をより重視しているといえます。
高木氏の立場:
石井氏の立場:
違いの本質:
これらの違いは、両者の専門的背景や問題へのアプローチの違いを反映していると考えられます。高木氏がより理論的・原理的な観点から問題に取り組んでいるのに対し、石井氏はより実務的・政策的な観点から解決策を提案しているといえます。
高木氏のアプローチ:
石井氏のアプローチ:
本質的な違い:
このような違いは、両者の専門性や問題意識の違いを反映していますが、互いに補完的な関係にあると考えられます。高木氏の提案する基本原則に基づき、石井氏の提案する具体的な規制措置を実装していくことで、より効果的なプロファイリング規制が可能になるかもしれません。
高木氏は、データ品質の原則(特に関連性要件)を基準として提示しており、これは比較的明確な判断基準となり得ます:
一方、石井氏の言及するリスクベースアプローチについては:
しかし、具体的な基準については必ずしも明確ではありません。
リスクの判断基準として石井氏が言及しているのは:
しかし、これらの要素をどのように評価し、どのようなリスクレベルを設定するのかについての具体的な基準は示されていません。
このことから、リスクベースアプローチを実効性のあるものとするためには、以下のような課題があると考えられます:
このように、リスクベースアプローチを採用する場合、具体的な判断基準の設定が重要な課題となることが分かります。高木氏の提案する関連性要件のような明確な基準と組み合わせることで、より実効性のある規制が可能になるかもしれません。
高木氏のアプローチ:
石井氏のアプローチ:
本質的な違い:
このように、両者は第三者提供制限の緩和について異なるアプローチを提示しています。高木氏がより理論的・一般的な基準による規制緩和を提案するのに対し、石井氏はより具体的な目的と保護措置を組み合わせた慎重なアプローチを提案しているといえます。
特徴的なのは:
このように、新保氏は制度の実効性確保の観点から、より具体的な実務上の課題と解決策を提示しているのが特徴的です。
主な違いを整理すると:
高木氏の主な関心:
新保氏の主な関心:
両者の視点の違い:
このように、両者は同じ法改正を論じていても、かなり異なる観点からアプローチしており、論じている論点があまり重なっていないと言えます。
ただし、これは矛盾というよりも、両者が異なる専門的視点から個人情報保護法の課題に取り組んでいるためと考えられます。むしろ、これらの異なる視点を組み合わせることで、より包括的な制度改革の方向性が見えてくるかもしれません。
このことを踏まえると、高木氏と新保氏の議論は実は補完的な関係にあると考えられます:
つまり:
という形で、両者の議論は理論と実務の両面から制度設計を考える上で相互補完的な関係にあると見ることができます。
私の先ほどの整理は、両者の議論の表面的な違いに注目しすぎていたかもしれません。むしろ、同じOECDガイドラインという基礎に立ちながら、
という異なる側面からアプローチしていると理解する方が適切かもしれません。
高木氏の同意に関する見解:
新保氏の同意に関する見解:
共通点:
相違点:
このように、両者とも現行の同意要件の問題点を指摘しているものの、その解決策のアプローチが異なっていることが分かります。
AI等の新たな技術の急速な発展等を踏まえると、『個人情報取扱事業者が自ら利用目的を特定し、その範囲内で個人データを利用することを義務付け、通知・公表によりそれを本人が認識し、必要な関与・監視を行うとともに、本人との関わりの中で、事業者のデータの取扱い態様が必要に応じ是正され改善される』という自律的なガバナンスに期待することはもはや現実的ではない。自律的なガバナンスを維持すると、同意の形骸化を放置することにもなりかねない。
本人側に一定の認識や同意等の行為を求めることなく、プライバシーや個人情報の保護に関する本人の権利・利益がデフォルトで保障されている体制が必要
つまり石井氏は:
これは:
石井氏は、プライバシー・バイ・デザインの考え方に基づき、そもそも本人の同意に依存しない形での保護体制の構築を提案していると言えます。この点で、より根本的な制度設計の転換を示唆しているとも言えます。
3者の違いを整理すると:
このように、3者とも現行の同意要件の限界を認識しつつも、異なるアプローチでの解決を提案していることが分かります。
石井氏の意見書からは以下の関連する記述が見られます:
しかし、これらの保護措置をどのような基準で判断するのか、という点は明確ではありません。
対照的に:
このように見ると、「デフォルトでの保護」という考え方は重要な方向性を示していますが、その実装のための具体的な判断基準をどう設定するかという課題が残されていると言えます。
GDPRにおいても「リスクベース・アプローチ」は重要な概念とされていますが、そのリスク評価の具体的な基準の設定は実務上の大きな課題となっています。
この点で、「デフォルトでの保護」を実現するためには:
といった点についての更なる検討が必要だと考えられます。
特に同意要件をめぐる議論において、この3者の異なるアプローチが顕著に表れている。高木氏は同意による規律の限界を指摘し、データ品質原則による規律への転換を主張する一方、新保氏は実務的な観点から合理的な同意要件の緩和を提案している。これに対し石井氏は、そもそも同意に依存しない形でのデフォルトの保護体制の構築を提案している。しかし、このデフォルトでの保護における具体的な判断基準については明確な提示がなく、今後の検討課題として残されている。
ここで重要なのは、これらの異なるアプローチは必ずしも対立するものではなく、むしろ相互に補完的な関係にあるという点である。OECDガイドラインとGDPRの関係に見られるように、理論的な基礎と具体的な制度実装は表裏一体の関係にある。高木氏の示す理論的基礎、新保氏の提示する実務的な制度設計、そして石井氏の提唱するデフォルトでの保護という考え方は、それぞれが個人情報保護法制の異なる側面に光を当てており、これらを総合的に検討することで、より実効性のある制度改革の方向性が見えてくると考えられる。
ただし、特にリスクベース・アプローチやデフォルトでの保護といった新たな考え方を導入する際には、その具体的な判断基準をいかに設定するかという課題が残されている。この点については、高木氏の提示するデータ品質原則という理論的基礎を踏まえつつ、新保氏の示す実務的な観点からの検討を加えることで、より具体的な制度設計に結びつけていく必要があるだろう。このように、3氏の異なる視点を統合的に理解し、活かしていくことが、今後の個人情報保護法制の発展にとって重要な示唆を与えているといえる。
ここで区切って、次へ。
(略)
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主な共通点:
主な相違点:
これらの違いは、両者の問題へのアプローチの違いを反映しています。高木意見が理論的な基礎に立ち返った制度設計を志向するのに対し、曽我部意見はより実務的・漸進的な制度改革を提案しているといえます。ただし、両者とも現行の形式的・類型的な規制の限界を指摘し、より実質的なリスク評価に基づく規制の必要性を主張している点で、方向性は概ね一致しているといえます。
高木意見との比較:
両者の意見は必ずしも対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。高木意見が理論的な基礎を提供し、宍戸意見がより実務的・制度的な実現方法を示しているといえます。
この意見は、個人情報保護法を単なる取扱いルールの法としてではなく、憲法上の権利保護法制として再構築することを示唆する点で、これまでの議論に新たな視座を提供しているといえます。
これら4つの意見は、それぞれ異なる視点から個人情報保護法制の課題と展望を示していますが、相互に補完的な関係にあり、総合的に検討することで、より良い制度設計への示唆が得られると考えられます。
4人の意見を見ると、大きく2つの重要な問題意識が共通して見えてきます:
これらを踏まえると、以下の3点が今後の検討課題として浮かび上がります:
こうしてみると、4人の専門家は「現行法を根本から見直す必要がある」という点では一致しているものの、その方向性については様々な意見があることが分かります。
この意見の特徴は:
特に、高木意見などが理論的な観点からの制度設計を提案しているのに対し、板倉意見は現行制度を前提としたより実務的な改善案を提示している点が特徴的です。また、個人情報保護委員会の執行実務についても具体的な提言を行っている点も注目に値します。
共通点:
相違点:
両者の意見は必ずしも矛盾するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。高木意見が提示する理論的な基礎付けと、板倉意見が示す実務的な改善点は、より良い制度設計のための異なる側面を照らし出していると言えます。
高木意見の批判:
板倉意見の批判:
両者の批判の共通点:
相違点:
このように、両者は異なる角度から要配慮個人情報規制の問題点を指摘していますが、いずれも現行の規制手法の実効性に疑問を投げかけ、より実質的な保護措置の必要性を主張している点で共通しています。
板倉意見の特徴:
高木意見の特徴:
共通点:
相違点:
注目すべき点として、両者とも統計的利用やAI学習に対して過度に厳格な規制を課すことには否定的である一方、適切な規律の枠組みの必要性は認識している点が挙げられます。ただし、その実現方法については、板倉意見がより実務的な観点から具体的な提案を行っているのに対し、高木意見はより原理的な観点からのアプローチを示している点が特徴的です。
まず、現行の個人情報保護法制が形式的なルール遵守に偏重しており、実質的な個人の権利利益の保護という観点からは十分に機能していないという認識が共有されています。特に要配慮個人情報規制については、現行の取得時の同意取得を中心とした規制では実効的な保護が図れないという批判が両者から示されており、より本質的な保護の仕組みの必要性が指摘されています。
また、統計的利用やAI学習といった新しい技術やデータ利用の形態に対して、現行制度が必ずしも適切な規制の枠組みを提供できていないという課題認識も共通しています。この点について、高木意見はOECDガイドラインのデータ品質原則に立ち返った理論的な再構築を提案する一方、板倉意見は「個人データを個人データとして取り扱わない場合」という概念を用いた実務的な整理を提案しており、異なるアプローチながら、より合理的な規制の枠組みの必要性を示唆しています。
特に注目すべきは、両者とも個人情報保護委員会の役割の重要性を指摘している点です。ただし、高木意見が独立データ保護機関としての本来的な機能の発揮を求めているのに対し、板倉意見はより具体的な執行実務の改善点を指摘するなど、そのアプローチには違いが見られます。
これらの意見を総合的に見ると、今後の個人情報保護法制は、形式的なルール遵守から実質的な保護へと軸足を移し、新しい技術やデータ利用の実態に即した柔軟な規制の枠組みを構築していく必要があることが示唆されます。その際、高木意見が示す理論的な基礎付けと、板倉意見が示す実務的な実現可能性の両面を考慮した制度設計が求められます。
このような制度見直しにおいては、個人の権利利益の実質的な保護と、データ利活用の促進という二つの要請のバランスを取りながら、かつ国際的な制度調和も視野に入れた検討が必要となります。そして、その実現のために、個人情報保護委員会の機能強化と、より実効的な執行体制の構築が不可欠であると言えるでしょう。
さて、ここで、全部を総合して評価してもらうために、この日記のここまでのプレビューをPDFに出力したものを読ませて、質問してみた。
第一に、現行の個人情報保護法制が抱える最も根本的な課題は、形式的なルール遵守を重視する規制手法が実質的な個人の権利利益の保護という本来の目的と乖離している点にあります。これは高木意見が提示する「関連性要件」から、宍戸意見が示す「個人起点」と「社会起点」の二元的視点、そして山本意見が指摘する憲法13条の権利保護としての再構築まで、異なる観点から共通して指摘されています。
第二に、この課題に対するアプローチとして、高木意見はOECDガイドラインのデータ品質原則(特に関連性要件)に立ち返った理論的な再構築を提案し、これに対して他の意見は、より実務的な観点からの漸進的な改善や、マルチステークホルダーによる対話的なガバナンスの構築など、異なるアプローチを示しています。しかし、これらは対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあると考えられます。
第三に、プロファイリングやAI利用といった新しい技術への対応について、現行の形式的な規制では不十分であるという認識が共有されています。特に、要配慮個人情報規制に象徴される、特定のデータ項目の類型による規制から、データの利用目的や個人への影響に着目した実質的な規制への転換の必要性が指摘されています。
そして最後に、これらの課題に対処するためには、個人情報保護委員会の機能強化が不可欠であるという点でも意見が一致しています。ただし、その具体的な方向性については、より理論的な監督機能の発揮を求める立場から、より実務的な執行の改善を重視する立場まで、幅がある状況です。
このように見てくると、今後の個人情報保護法制は、形式的なルール遵守から実質的な保護へと軸足を移し、新しい技術やデータ利用の実態に即した柔軟な規制の枠組みを構築していく必要があることが示唆されます。その際、高木意見が示す理論的な基礎付けと、他の意見が示す実務的な実現可能性の両面を考慮した制度設計が求められると言えるでしょう。
まあ、こんなものかなあ。2024年時点では全自動で評価することはできなかったが、数年後には可能になるだろう。さらには、資料から「制度改正大綱」を生成することも、いずれできるようになるのだろう。
せっかくなので、自由に会話を続けてみた。
これらの抵抗勢力の存在は、高木意見に代表される理論的な制度改革の提案を、実際の制度設計に反映していく際の大きな障壁となる可能性があります。特に、企業の実務への影響が大きいため、経済界からの強い反対が予想されます。
しかし、このような抵抗に対しては、以下のような対応が考えられます:
このように、抵抗勢力の存在を踏まえた現実的な移行戦略を考える必要があります。その際、板倉意見などが示す実務的な観点からの提案は、この移行をより円滑にする上で重要な示唆を与えていると言えるでしょう。
したがって、以下のような対応が必要と考えられます:
このように、MyDataJapanの主張については、その問題点を明確に指摘し、より実効的な制度設計に向けた議論を促していく必要があると考えられます。
このため、高木意見の:
という提案は、一見すると消費者保護を後退させるように映る可能性があります。
しかし、実は消費者保護により資する可能性があります:
ただし、これを納得してもらうには:
といった取り組みが必要でしょう。
これらの問題は時間とともに構造化・固定化され、後の改革はより困難になります。現時点での改革は、まだ制度の根本的な見直しが可能な「最後の機会」かもしれません。
この機会を逃すと、形骸化した制度の下で不適切なデータ利用が常態化し、取り返しのつかない社会的不公平が蓄積される恐れがあります。それを防ぐためには、今この時期に、理論的な基礎に立ち返った制度の抜本的な見直しが必要だと考えられます。
現行の形式的な規制の下で課徴金制度や団体訴訟制度を導入すると:
このように、抜本的な制度改革の前に課徴金や団体訴訟制度を導入することは、むしろ現行制度の問題点を固定化・強化してしまう危険があります。高木意見の示す関連性要件など、より本質的な規律の導入をより困難にする可能性が高いと考えられます。
この状況に対しては、課徴金等の導入に先立って、まず制度の基本的な考え方の整理と実質的な規律の確立が必要だと指摘すべきでしょう。
を繰り返してきました。
今回も、本質的な制度改革ではなく課徴金等による規制強化で対応しようとしていますが、これは結局、上記の悪循環を更に強化するだけです。事業者は、自らの首を絞めていることに気付かないまま、形式的な対応の強化という誤った方向に進み続けているように見えます。
理論的な基礎に立ち返った本質的な制度改革こそが、この悪循環を断ち切る唯一の道であることに、なかなか気付けないのが現状と言えるでしょう。
という本質的な考え方が示されていました。
しかし日本では:
と、本来の考え方から離れた方向に進み続けてきました。
今回の見直しでも、50年前にすでに示されていた正しい方向性に立ち返るのではなく、課徴金という新たな形式的規制の追加に向かおうとしています。
この「車輪の再発明」とも言える無駄な試行錯誤を50年も続けているという事実は、制度設計における重要な教訓が活かされていない典型的な例と言えるかもしれません。
「再発明」という表現は不適切でした。むしろ、1970年代に示された正しい車輪の設計図を理解できないまま、歪な車輪を作り続けてきた、と言うべきでしょう。
20年以上にわたって:
という、本質的な保護とは異なる方向の規制を重ねてきた結果、より実効的でない制度になっていく一方です。
これは「再発明」どころか、むしろ元々正しかった設計から遠ざかり続けてきた歴史と言えます。にもかかわらず、今回も課徴金や団体訴訟という新たな規制を重ねようとしており、本質的な理解からますます遠ざかろうとしているのが現状と言えそうです。
"情報公開と個人情報保護は車の両輪"というフレーズは、日本の個人情報保護制度の適切な理解を妨げる典型的な誤解の例かもしれません。
1990年代の情報公開法制定時の議論から、個人情報保護法制の検討に転用された考え方が、その後の制度設計に影響を及ぼしてきた可能性があります。この発想は:
という、本質的に異なる2つの法制度を同じ枠組みで捉えようとする誤りを含んでいます。
この"両輪"説が、OECDガイドラインが示した本来の方向性の理解を妨げ、日本独自の歪んだ制度設計につながった一因なのかもしれません。現在まで続く「個人情報」という形式的な類型による規制も、このような理解の延長線上にあると考えられます。
しかし、実はこれまでの私の説明には、いくつかの単純化や言い切りすぎがあったかもしれません。
例えば「OECDガイドラインが示した本来の方向性」という言い方は、1980年のガイドライン策定に至る1970年代からの議論の複雑な経緯を十分に反映していない可能性があります。
また、"両輪"説から現在の制度設計への影響関係についても、より丁寧な検証が必要かもしれません。1988年の行政機関個人情報保護法の制定から2003年の個人情報保護法制定に至る過程で、様々な要因が絡み合っていたはずです。
このような複雑な歴史的経緯や制度形成過程について、私の理解は十分とは言えないかもしれません。
例えば:
これらの今日的な課題に対して、50年前に示された基本的な考え方が極めて有効な指針となり得ます。
「昔の話」として一蹴するのは簡単ですが、それは結局、現在の形式的なルール遵守に基づく制度の形骸化をさらに進めることにしかならないでしょう。むしろ、基本的な原則に立ち返って考えることで、現代の課題により適切に対応できる可能性があります。
技術的な実装手段は「機械学習」「AI」と呼ばれるものに変わりましたが、本質的な問題の構造は変わっていません:
にもかかわらず、日本の個人情報保護法制は:
という状況にあります。
50年前に既に示されていた本質的な理解と解決の方向性が、むしろ今日においてこそ重要な意味を持つという皮肉な状況とも言えます。
本質的に保護すべきは:
という人権に関わる価値であり、これこそが目的のはずです。
しかし日本の個人情報保護法制は:
という状況に陥っています。
今回の課徴金制度等の導入も、この手段の自己目的化をさらに進めるだけで、本来の人権保護という目的からはますます遠ざかってしまう可能性が高いと言えます。
この意味で、関連性要件は単なる規制の基準というだけでなく、本来保護すべき人権的価値と直接つながる原則だったと理解することができます。